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大理石に刻まれた糸の宝石

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


17世紀の貴族の彫像

ー 超絶技巧の彫刻

 16世紀にレースが衣裳に取り入れられて以来、王侯は肖像画にレースを描かせてきました。

 レースがステイタスシンボルだった16世紀後期から18世紀の半ばにかけては、実際のレースがどのようなクラスのものであるかをアピールするために肖像画のなかでレースはリアリティのある写実的な表現で描かれました。

 絵画以上に超絶技巧を凝らして製作されたものが大理石を使った彫像でした。

 レースをいかに表現するか、彫刻家たちは技法を駆使してその再現を試み素晴らしい作品を残しているのです。


石に刻まれた王侯たち

1. マリア・ドゥリオーリ・バルベリーニ ( 1599-1621 )

ジュリアーノ・フィネッリ作の『 マリア・ドゥリオーリ・バルベリーニの胸像 』( 1627年以前 )
ルーヴル美術館蔵

 ルーヴル美術館に所蔵されているジュリアーノ・フィネッリ作の『 マリア・ドゥリオーリ・バルベリーニの胸像 』には素晴らしいレースの彫刻が見られます。

 バルベリーニ家は17世紀に隆盛したローマ貴族の家系で、11世紀にトスカーナで興った小貴族が起源の家柄でした。

 アントニオ・バルベリーニは16世紀にメディチ家が支配するフィレンツェを厭いローマに本拠地を移します。アントニオの甥フランチェスコが叔父を頼りローマに移住して財を築き、フランチェスコの財はマッフェオをはじめとする弟アントニオ( 叔父と同名の )の息子たちに受け継がれました。

 このマッフィオ枢機卿が1623年に教皇ウルバヌス8世として選出されて大きな富と権力を得ることでバルベリーニ家は繁栄することになるのです。

 マリアはこの教皇ウルバヌス8世の姪のひとりで1599年に生まれ、1621年に若くして世を去っています。 

素晴らしい彫刻の写実性で、ボビンレースのスカラップの縁飾りよって
襞襟が装飾されているのがわかります
襟刳りとスカラップの襟の縁取りはピンを使用した痕跡が見られるのでボビンレースだわかります
フランドルもしくはジェノヴァのボビンレースによる襟飾り ( 16世紀末-17世紀初頭 )
ザンクト=ガレン繊維博物館蔵 旧レオポルド・イクレ・コレクション

2. トマス・ベーカー ( 1606-1658 )

 トマス・ベーカーは1657年にサフォーク州長官となった人物で、国王チャールズ1世の宮廷との繋がりから王党派として活動しました。

 ベーカーはヴァン・ダイクによって描かれたチャールズ1世の三重肖像画をローマに運び、この肖像画から彫刻家ベルニーニが国王の胸像を製作したと伝わっています。

 チャールズ1世の胸像は破壊されたために現在には伝わっていませんが、ベルニーニによる素晴らしいベーカーの胸像からその卓抜した人物と衣裳など細部への表現技術の高さを知ることができます。

ジャンロレンツォ・ベルニーニ作の『 トマス・ベーカーの胸像 』 ( 1638年 )
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館蔵
ボビンレースで飾られたリネン製の襟 フランドル ( 1630-1640年ごろ )
アムステルダム国立美術館蔵

 胸像が製作された当時に流行した襟がアムステルダム国立美術館に所蔵されています。

 花瓶に活けられた花のモチーフは当時の南北ネーデルラントで好まれたデザインで、1630年代にヨーロッパで大流行しました。

3. マリア・チェッリ=カプラニカ ( 1618-1643 )

 マリア・チェッリはローマの名家の出身で、1637年に同じくローマの上流階級出身のバルトロメオ・カプラニカと結婚しました。

 胸像の台座には両家を示す紋章が彫られているので、この胸像は彼女の婚姻後の1637年以降に製作されたと考えられています。

 マリア・チェッリは1643年に25歳で若くして世を去りました。

ジュリアーノ・フィネッリ( 1601-1653 )またはアレッサンドロ・アルガルディ( 1598-1654 )作
『 マリア・チェッリ=カプラニカの胸像 』( 1637-1643年 )
彫刻の写実的な表現から襟はフランドルのスカラップボビンレースで飾られているのがわかります
この胸像はローマの上流階級のあいだでもフランドルで製作された
ボビンレースが流行していたのを示しています
マリア・チェッリの胸像に見られる襟飾りと類似するフランドル製のレース ( 1640年ごろ )
ザンクト=ガレン繊維博物館蔵 旧レオポルド・イクレ・コレクション

 イタリア人であるマリア・チェッリの胸像にもフランドルのボビンレースが見られるように、17世紀前期にヨーロッパ中でフランドルのレースが大流行したことが示されています。

4. ルイ14世 ( 1638-1715 )

 ルイ13世の崩御により1643年に4歳で即位したルイ14世は母后アンヌ・ドートリッシュによる摂政時代と、宰相ジュール・マザラン枢機卿の補佐を経た1661年に親政を開始しました。

 若い国王は宮廷服にヴェネツィア様式のニードルレースを取り入れ、国王の威厳と権威性を高める象徴としました。

 ベルニーニによる若い国王の胸像には、首元に当時流行した前垂れ襟の【 コル・ラバ 】が見られます。

ジャンロレンツォ・ベルニーニ作の『 ルイ14世の胸像 』 ( 1665年 )
ヴェルサイユ宮殿藏
ヴェネツィア様式のニードルレースによる前垂れ襟 ( 1660年代 )
クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館蔵

5. コジモ3世デ・メディチ ( 1642-1723 )

 メディチ家出身の第6代トスカーナ大公のコジモはメディチ家の歴代当主の中でも最も長命な81歳で崩御、在位は53年もの長きにわたった人物です。

 コジモは政治的に無能であったことに加え、歴代のメディチ家当主の伝統である芸術・学問のパトロンとしての資質にも恵まれませんでした。

 政治を顧みないコジモの長い治世の間にメディチ家のトスカーナ大公は落日へと向かい、彼の次男ジャン=ガストーネが最後のメディチ家トスカーナ大公となりました。

ジョヴァンニ=バッティスタ・フォッジーニ作『 トスカーナ大公コジモ3世の胸像 』( 1680-1682 )
メトロポリタン美術館藏
1680年ごろのヴェネツィア様式のニードルレースを使用したクラヴァットの復元
フランスで1670年代後半から流行したクラヴァットはイタリアでも導入されました

 コジモ3世の胸像からはコル・ラバの流行が廃れ、フランスで1670年代から流行していた【 クラヴァット 】がイタリアでも流行していたことがうかがえます。

6. アンナ・ベアトリーチェ・デステ=ピコ ( 1626-1690 )

 モデナ公兼レッジョ公アルフォンソ3世とイザベッラ・ディ・サヴォイアの娘アンナ・ベアトリーチェは、1637年に両国の関係強化を目的としてミランドラ公兼コンコルディア侯爵アレッサンドロ2世・ピコと政略結婚しました。

 アンナ・ベアトリーチェは9人の子供に恵まれましたが、後継者のフランチェスコ・マリアは夫より先に没し、アレッサンドロ2世の崩御後に跡を継いだ孫のフランチェスコ・マリア・ピコは妻のマリア・グァダルーペ・フィッツ・ハメス・ステュアルト・イ・コロン・デ・ポルトガルとのあいだに後継者を残さずミランドラ公国はモデナ公国に吸収されて消滅することとなりました。

ロレンツォ・オットーニ作の『 マリア・ベアトリーチェ・デステ=ピコの胸像 』 ( 1680年代 )
マントヴァ公宮殿藏
グロ・ポワンと呼ばれる1680年ごろのヴェネツィア様式のニードルレース
重厚なレースは1650年ごろから流行しはじめ1690年代から急速に流行遅れとなっていきました
クリーヴランド美術館藏

 晩年のアンナ・ベアトリーチェ・デステの胸像には衣裳の装飾として【 グロ・ポワン 】と呼ばれる重厚なレリーフのニードルレースが見られます。

 高い髪型は【 コワフュール・ア・ラ・フォンタンジュ 】と呼ばれ、1680年ごろから1710年代までヨーロッパで流行しました。

7. マッフィオ・バルベリーニ ( 1631-1685 )

ロレンツォ・オットーニ作 『 マッフィオ・バルベリーニの胸像 』 ( 1683-1685 )

 マッフィオ・バルベリーニはローマ貴族のバルベリーニ家の当主で、母親はローマの有力貴族コロンナ家出身でした。

 彼の父方の大叔父にあたるのが教皇ウルバヌス8世で、マッフィオはパレストリーナ公の称号とパチェントロ伯、ガリアーノ伯の爵位を所有していました。

 マッフィオは芸術のパトロンとして知られ、歴代バルベリーニ家の蒐集した美術品を拡充したり、閉鎖されていたクワトロ・フォンターネ劇場を再開してオペラ公演を後押ししました。

 マッフィオ・バルベリーニの最晩年に製作された胸像には、1680年代にはすでに流行遅れとなっていたヴェネツィア様式のレースで飾られた【 コル・ラバ 】が見られます。

 これはマッフィオ・バルベリーニが金羊毛勲章を叙爵した1668年の当時の姿を表しいているためです。 


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