あるブリュッセルのレース商の物語 その8
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
前回までのあらすじ
ブリュッセルのレース商人ジャン=バティスト2世ゴドフロワの妹《 プティット・ムール 》は母親の他界後にボッツォン家を下宿先としてローゼンダールに移り住んだが、賃貸契約をめぐり兄を巻き込んだ訴訟を抱えることになるのでした。
ボッツォン家
ー 妹の転居
ボッツォン家がデュ・ロンドー未亡人(ジャン=バティスト2世の妹、プティット・ムール)の生活を苦しめているのはその結果が見えないこの訴訟のためなのでしょうか。
彼女が兄に文句を言ったらきっと兄はこう答えたに違いないでしょう。「ボッツォン夫人のやり口にはますます驚かされます。彼らがあなたと別れるようにあなた自身が仕向けることが最善の方法だと私は思うよ。今までの書類を全部送り返させて引越し業者を探すように頼んでいたのだけど、今の季節と状況ではボッツォン家を出て行くことはほとんど不可能だと反省している。」
その後、ローゼンダールでの生活に耐えられなくなったデュ・ロンドー未亡人はシャペリエ通りに移り住むことになるのでした。
しかし、ブリュッセルに帰郷する兄はボッツォン夫人のために魅力的で素晴らしい品物を用意していました。1770年にブリュッセルを訪れた際には、ボッツォン夫人が欲しがっていた扇子をわざわざパリから持ってきたのです。
そして彼は悪びれずに妹に「ボッツォン夫人の依頼を喜んでお受けするよ。だから彼女の欲しいものを教えて欲しいんだ。カット・スティックとは何を意味するのかな? もしそれが扇子の要をつなぐ釘のところのことなら、扇子のどこに宝石を飾るべきかな? もしそれが中国趣味のものでであるなら扇面の意向もあれば教えてほしいんだ。」
その後、再び妹とボッツォン夫人の間が緊迫しているときにもかかわらず、兄は見目麗しいボッツォン夫人の履いていた《刺繍の入った靴》を欲しがったのです。
ー 妹への土産
ブリュッセルに帰郷する度に妹からいくつもの用事を頼まれた兄はそれを優雅かつ情熱を持ってこなしていくのですが、手紙からは妹の言うことをあまり信用していないように感じられるのです。
「あなたから従姉妹のドーブレメにために頼まれたものと同じ傘をリガ嬢のためにもう一本注文したよ。しかしあなたが欲しがった12本の骨を持つ傘というのは間違いだったようだね。通常は10本以上の骨で傘を作ることはないらしいよ。だからご希望通りに特注しておいたから頼まれた靴下と一緒に持ち帰るよ。」
1770年7月14日に満足したデュ・ロンドー未亡人は日記にこう書き留めました。「今日、兄のゴドフロワから緑のタフタと白のタフタの12本骨の傘の1本ずつ受け取りました」。
兄の旅立ちはいつも落ち着かず様々な原因によって常に延期され、特に行政の遅さはその最たるものでした。「旅券の発給で足止めを食らってしまったよ。しかし発給には私の知らない面倒な手続きがあるそうだ。それももうすっかり済んだそうで明日には手配できると役人から言われたよ。」
そして兄は、確かに翌日には旅券と扇子と傘が届いたと妹宛ての手紙に認めました。そして郵便局へその手紙を差し出しに行く気でいた兄は、思い出したようにすぐに手紙にこう書き加えました。
「昨日の手紙で格子模様の背景を持つ可愛らしくモダンなデザインのメヘレンのカフスを2組、私のために確保してもらうようお願いするのを忘れていたよ。それは美しい縁取りと際立たせた花束の柄がある方がいいと思うんだ。」
のちに妹から送られてきた品物を見て、兄は満足の意を表すことになるのでした。
兄弟の愛情
ー 粉々になったマステルス
兄弟の持ちつ持たれつの関係は度重なる波乱にもかかわらず、兄と妹の関係が良好であったことを証明すしています。
兄はあるとき「私たち夫婦は」と前置きして、「あなたと従姉妹のドーブレメのドレスのための飾りや花綱を探しだすのに大変な苦労をしたよ。従姉妹のウルスルへの扇子を同封したから届いたら彼女に渡してほしい。」と手紙に認めています。
妹へはすでに《 ジュネーブで作られるよりも優れた時計 》を贈っていたようで、このようなパリから届けられる様々な品物が妹を喜ばせていました。
「またあなたに《 可愛らしいドレス 》を贈ろうと思っているのだが、あなたが送ってくれた見本生地のような深い枯葉色をまだ希望しているのなら教えてほしい。」
彼は用心深くかなり気まぐれなプティット・ムールの好みを確認するのが最善であると考えていたようで、優美で戯けた表現の《 可愛らしいドレス 》の筆致には兄の優しさに溢れた魅力が表れています。
兄は妹に洗練された衣裳を贈る代わりに、ブリュッセルの名物料理ペパーコークやスペキュラース(スパイス・ビスケット)、ビスケット、マステルス(ミルクスープのための)、それに何ポンドもの紅茶とチョコレートを送ってもらうのが常でした。
妹がマステルスを丁寧に梱包しなかったという、どうしようもない失敗にもかかわらず彼は絶妙なお礼を言うのでした。
マステルスがある日突然「粉砕された」状態で兄の元に届きました。そこで彼はこのおっちょこちょいな妹にこう認めました。
「お義母さんの家にジョゼフィーヌのボンネット入れに使われているブリキの箱があるからマステルスを送るときに使うように。梱包するときには細心の注意を払って何よりも箱がいっぱいになっていて遊びがないようにしなければならないよ。」
兄の心配をよそにまた「パン粉のように粉々になった」マステルスが届くのでした。
その9につづく
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