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小説『小鳥屋のある風景/下』

「お戻りでしたか」
「ご店主、こいつの歌は誰が教えたんですか」
「あぁ、はいはい、そいつですね。そりゃあね、うちに来る前から覚えて来たらしくて、そいつの十八番でさぁ」店主は得意げに答えてきた。
「そうなのか」男は鳥の変な歌い方に文句を付けようとしていたのだが、ここで覚えたのでないなら仕方がない。
「こいつはまだ若いから色んな言葉を覚えますよ」
店主は頻りにその鳥の毛色などを褒めたたえ、売り込もうとしている。さっき荷物になるからと断った筈の男の気持ちも揺らぎそうな勢いだ。
「こういう喋る鳥は特に女子供に人気でしてね、うちにもしょっちゅう近所の子供が冷やかしに来る位なんですわ」
「なるほど、色も玩具みたいで子供が好みそうだ」
その時、男に名案が浮かんだ。そうだ、自分がこの鳥を飼って歌わせていれば、きっと息子達も孫を連れて遊びに来てくれるやも知れぬ。こんな小さな鳥だ、どうせ四、五年もしたら死んでしまうかも知れないが、生き物の世話をするのも老後のいい暇潰しになろう。
「お前のその歌、私が完璧に教えてやる」
「え?」店主が驚いた顔をこちらに向けていた。男の思いが無意識に声に出てしまっていたようだ。
「あぁ、いや、こっちの話だ」男はあたふたして誤魔化した。
「ご店主、それでこの鳥は幾らだ」
「八千円です。まだ若いのでね。でも都会で買ったらもっとしますよ」小鳥屋は完全に商売人の顔で答えた。
「八千円か……」そこそこ良い値がするものだ、矢張り身を引こうか迷って鳥を見た。日暮れに差し掛かって海風が冷たいのか、鳥は既に歌うのを止めて羽根を膨らませ、押し黙っていた。時折小首を傾げ、まん丸い目でこちらを見る。鳥の癖してあざとい仕草に男は内心苦笑いしていた。鳥は本当に寒そうだ。色からして恐らく暖かい国から来た鳥なのだろう。寒さは苦手だろうに自分が迷っている間にこんなに震えさせてしまっている。男は一度大きく唸ってから言った。
「ご店主、このまま風邪でも引かせてしまったら忍びない。何か温かく連れ帰れるようにしてやってくれ」
「ヘイ、毎度ありがとうございます」
小鳥屋の主人は待ってましたとばかりに一度体を起こすと、今度はぺこぺこと腰を折りながら奥の暗闇へと引っ込んで行った。
「ご主人、籠はお持ちですか」ガタガタという物音と共に店主の声が男に尋ねた。少年時代に甲虫を飼って以来生き物など猫一匹飼ったことのない男は焦った。
「や、持ってないな」
「ではこちらなぞどうでしょう」店主はやや色褪せた鳥籠を手に戻って来た。恐らく売れ残りの品なのだろう、ポリ袋を被って未使用なのは分かるが少し埃っぽい。
「お安くしますよ」と傍らの机に置いて男に見せた。
「うむ、どの道買わなきゃならんのだからお願いする。他に必要な物があれば付けてくれ」
「あと巣箱ですね。これがあると鳥も安心します。餌箱に水入れと、それに烏賊の甲」小鳥屋の主人は奥の棚から細々としたものを引っ張り出して来ては机に並べた。
「色々と入用なものだな。この巣箱は藁の奴ではいけないのか」どんどんと増えていく用具に男は面食らった。せめて巣箱は軽い物にしたい。
「駄目ですよ。インコってのはね、あっちこっち噛んじまうんで直ぐにぼろぼろにされまさぁ」
「そうなのか」木の箱ではなく、より自然に近い巣から顔を出す小鳥というのも趣があって良かろうと思っていた男は少々がっかりした。
「あぁそれと」と小鳥屋は小麦粉程の重そうな紙袋をどしっと机に置いた。
「餌なんですがね」店主は折り畳まれた袋の口を開けて男に見せ、これは自分がインコの為に調合した餌なのだと胸を張った。
「ほう」これはかなり熱心な鳥飼いなのだと男は感心した。しかし少しの懸念がある。
「ではこいつはこれじゃないと食わせられんのですか」そうであれば配合方法も教示願わねば。
「いやいや、市販の餌でも何でも食いますよ。唯その時には向日葵は少な目に、それに菜っ葉や人参もやって下さい」
「そうなのか、あいわかった」男はほっとした。それならば地元で餌は揃えられる。
それじゃ、と言って小鳥屋の主人は空気窓の空いた小箱を手早く組み立てると、インコの籠に手を入れた。
鳥は突然の襲来に羽をばたつかせて止まり木の端迄逃げたが、直ぐに節くれだった五本の指に包まれると、観念したかのように抵抗を止め、半目を開けたまま籠から引きずり出された。小鳥屋はそれを左手に持った小箱に頭から投げ込むと、素早く蓋を閉めた。
そのあまりにも荒っぽい所業に男は唖然としていた。
箱の中で鳥は二、三度抗議の声を上げて静かになった。もしや手荒に扱われて死にかけているのではないかと男は不安になったが、店主が箱を机に置くとカサコソと音を立て始めた。直径一センチ程の穴から中を覗くが暗くてよく分からない。反対側の穴から射し込む光で逆光になった稜線が動くのみである。だが、どうやら具合が悪いようではない。
「鳥は暗くすると大人しくなるんですよ」店主が算盤を弾きながら言った。
「そうなのか」男は安堵して顔を上げると机に広げられた飼育用具を見渡した。今度はこれを全部持って帰ることの方が不安になる。
「一万三千円ですが、負けて一万二千円でいいですよ」
店主は言うなり手際良く品物を包み始め、籠の中に入れていく。勿論あの鳥の入った小箱も、藁半紙で出来た紙袋に入れられ籠の中に収まった。
「あ、あぁ」男は鞄から財布を取り出すと、札二枚を店主に手渡した。
「へい、毎度」店主は札を受け取ると、釣り銭を持ってくるからと言って奥へと引っ込んだ。
暗闇に目を慣らしてよく見ると、なるほど屋内は物置のように荷物が積み上げられてはいるが、壁には造り付けの棚があったり、ガラスケースがあったりで、ここが元々は店屋だったことを窺わせる。店主は積み上がったダンボールやブリキの行李の間を抜けて、対面の襖戸迄辿り着くと、それを大きく開けた。
中は六畳程の座敷だった。微かに線香や樟脳の匂いが漂い来る。店主はつっかけを脱ぎ捨てながら、よいしょと座敷に上がった。湯呑みや菓子入れの乗った卓袱台を避けて座敷を通り抜けた店主が、向正面の障子戸をガラリと開けると、店側で待っていた男は、ええっと何とも言えない素っ頓狂な声を上げた。
何と、その向こうは更に店になっていて、逆光で陰ってはいるが、それは紛れもなく、さっき男が桜餅を求めて訪れた万屋に違いなかった。 向こうの店の間口からは、見覚えのある水平線さえもが見えている。
「な、中で繋がっていたのか」
奥でレジスターのベル音を響かせると、店主は早々に戻って来た。
「八千円のお返しですね」店主は狐につままれたような顔をしている男に釣り銭を渡し、何食わぬ様子で籠を差し出した。
「これはいい買い物ですよ。こいつはまだ若いから二十年は生きますからねぇ」それを聞いて男は仰天した。
「えっ、ご店主、今何と言った」
「二十年ですよ、インコは長生きなんで」
「二十年」男がその後に何かを言わんと口を開いた時、座敷の中から柱時計の鐘の音が響いて来た。それを聞くや男は動転した。
「あ、いかん。バスに乗り遅れる」店主の手からひったくるように籠を受け取ると、男は転げるように坂を下って行った。それを見送ると、店主は飄々として籠の片付けを再開した。

黄昏迫る駅のホーム。上りの列車は溜息をつくようにドアを開いた。まるで降りる者など誰もいないことを知っているかのようだ。車掌が丸めた旗を片手に車外に出て来て伸びをした。そのホームの階段を、後生大事に鳥籠を抱えた男がひいコラと息を切らせながら降りて来る。
「よかった、間に合った」
男は足早に列車に乗り込むと、空いているボックス席の通路側の座席に鳥籠をそっと置き、自分はその隣に腰を下ろした。空いていると言っても車両には男一人だ。こんな時間に都会へ出ようなどという者はいないらしい。
「やれやれ、帰りはタクシーを拾わにゃならんな」男は肩を揉みながら独りごちた。
やがて列車が動き出すと、様々な用具や紙袋に囲まれた小箱の上から駅前の夫婦桜より託された花弁がふわりと舞い上がり、籠の底の方に姿を隠した。
「うん、ちょっと寒いな」男は少し開いていた窓を閉めると、鳥籠の上に右手を置き、箱を横目で捉えて小さく溜息をついた。
「やれやれ、二十年とはなぁ」
自分の買い求めたインコの寿命が二十年とわかって男は当惑した。二十年もしたら自分は齢九十に手が届く。そんなに長生きと知っていたらば買うことはなかっただろう。バスの中で男は自分のしくじりを猛省した。しかしもう返すことは出来ない。いっそ孫達への土産と称して子供らに押し付けてしまおうか。
最初の思惑までをも覆し、そんな事まで考えた。それに、傷んだ桜餅を置いていた万屋と、荒城の月を歌うこの小桜インコが同じ店主の元にあったという妙な符号が、運命の出会いと言うには話が出来すぎていてどうにも釈然としない。まるで自分の心の内を見透かされてしまっていたかのようだった。
「さては、あの狸親父に図られたか」それにしても、桜餅のことは口にしなくて助かった。男は思い返してはくくっと笑った。
鳥籠をバスの揺れから守りつつ、鳥の処遇を思いあぐねる男にある名案が浮かんだ。
「そうだ、こいつはこの鳥屋の配合した特製餌しか食わない事にしておこう。そうすれば万が一俺が死んでも息子らは嫌でもここ迄買いに来ざるを得ないだろう。当然、墓参りにも来るに違いない」
「お願いだから、俺より長生きしてくれよ」いつだったか誰かに語ったであろう科白を、男は再び口にした。あの時は必死にそれを訴えた。神にも縋る心境だった。今はその時とは違って穏やかな気持ちでそれを伝える。箱の中の者はそれを聞いているのかいないのか、物音ひとつ立てずに沈黙を続けていた。
定年後に細君を失い、侘しくなる一方だったその余生を、この小さな生き物と添い遂げることとなった男を、夫婦桜が駅舎の仄かな灯りを以て艶やかに祝福し、そして静かに見送った。
列車は黄昏色の海岸線をひた走る。陽は既に水平線に呑み込まれようとして、きらきらと光の弧を残すのみとなっていた。
明日、あのお天道様が再び空に昇る頃には、自分には新たな生活が始まっているのだ。この小さな命との生活。男は年甲斐もなく気分が高揚していた。体を屈め、箱の窓穴から中を覗き込もうとしたり、話し掛けるなどして落ち着かない。只、眠っているなら邪魔をしてはならないと、箱には触れずに眺めていた。
「こんな遠方に連れ出してしまって、済まないなぁ。寒くはないか」小鳥からの応答を期待するわけでもないが、男は鳥籠に向かって語りかけた。
「これからお前の面倒は俺が責任を持って看て行くからな」そんなことを話しかけても、鳥はやはり眠っているのだろうか、羽根の擦れる音さえ聞こえて来ない。
どうせ家に帰れば毎日嫌という程顔を合わせる事になるのだ。男は構うのを止めて車窓を見やった。窓の外では夜空に星が散り、紺青の沖合にはぽつりぽつりと漁火が見える。船の灯火は凪を示して静止画のようだ。この景観を一緒にする相手のいない歯痒さは、きっと亡き妻も同じだったろうと想いを巡らす。
男は妻の身代わりの鳥にその美しさを伝えようとして気がついた。
「そうだ、お前の名前も考えてやらねばならんな」そうは思っても易々と浮かんで来るものでもない。ポチ、タマなどと考えているうちに、今日一日の疲れが動輪の揺らぎにあやされて、心地好い睡魔が襲って来る。
「あぁそうだ……桜餅を……店がやっていると、いいな……」行きつ戻りつする意識の中で、男の右手は妻の柔肌を思い出していた。籠の曲線を辿る指先はやがて伏せるように留まり、男の背中は列車の揺れに乗じて震えた。
薄墨を被せたような桜の群れが覆う切り通しの中を列車は抜けていく。
再び紺青の海原が見えたその向こう側には、遠く町の灯が点在していた。途中、男の車両に幾人かの学生服を着た若者達が乗り込んで来てお喋りに興じていたが、男がそれに拠って目覚めることはなく、やがて一人二人と列車を降りて行く。車両は再び男と鳥籠だけとなり、徐々に車窓の景色も変わっていった。
時折、工場やビニールハウスの明かりが闇に浮き上がり、点在する家々に人の営みが温かく灯る。そんな風景を断ち切るように列車が短いトンネルを抜け出た頃、鳥籠の中ではカサコソと微かな物音が聞こえていた。無論男はそんな事にも気付かずに寝息を立てている。物音はコツコツと箱を啄く音に変わった。
「ア…ナタ……。ネェ…………アナ、タ…」
その時列車は県境に架かる長い鉄橋に差し掛かり、動輪からは劈くような轟音が響き渡った。箱から聞こえていた物音は事も無げにかき消されてしまい、沈黙が戻った後も、男を乗せた列車は都会へ向かって唯淡々と直走るばかりだった。 終

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