見出し画像

ぼっちのこと

ネコの名前のことである。たぶん友だちだった。

今年の夏頃まで、ワタシはとあるお寺の広大な墓苑を掃除する仕事をしていた。4年ぐらい続いたかな。

どこか寒々とした風景の墓地にも四季はある。むしろクスノキやイチョウ、マツなど豊かな植栽が葉を茂らせ、さらには季節ごとに変わるお供えの花に彩られる墓地のなかこそ、いろんな季節のうつろいを毎日実感できる場所だと思う。

その墓地は公立高校ぐらいの広さがあり、ワタシは(あまり働かない)ふたりの老人たちとともに、年中休みなく降りそそぐ落ち葉の掃除に明け暮れていた。

そこで知り合った動物や昆虫は多い。鳥や虫たちは季節ごとにメンツが変わるが、ずっといっしょだったのがカラスとネコたちだった。

本当に不思議なことだが、墓地のカラスやネコたちは、けしてお供えの食べ物を掠め取ったりしなかった。かつての大名家も居並ぶ、由緒ある墓苑の霊力なのだろうか。ごくたまについばまれたお団子の跡を見つけることはあっても、たいていは充分に古くなってから。それでおなかをこわさないか心配になるほど、彼らお墓の生き物たちは礼儀正しかった。

カラスはもちろんだが、ネコたちのほとんども野良だった。

彼らには住むべき家がなかった。厳しい暑さや寒さから匿ってくれる飼い主はなく、たいていの場合は親もいなかった。みんな生まれてすぐに自立することを強いられ、とても低い確率で自立できたとしても、そこから生涯を通じた飢えの日々が始まる。たとえ我が親といえども、すくない食べ物を争う相手として戦わなければならない。そして、親のほうも我が子から容赦なくそれを奪ってゆく。

それが彼ら野良ネコたちのルール。ワタシはそんな様を何度も見ることになった。彼らのどちらに対しても、ワタシにしてやれることはなかった。


天涯孤独の野良ネコ、ぼっちと出会ったのは3年ほど前の春先だった。やせっぽちで小柄。見るからにろくに食べてゆけていない風体、すでに子ネコではなかったが、充分に成長しているとは言えない年頃だったと思う。

「ぼっち」はワタシによる命名である。

ほかに誰か名付けようとする者などいないわけだから、おそらく彼の生涯にとってたったひとつの呼び名だろう。いつもひとりぼっちでいるから、そしていつも墓地にいるから、それが名前の理由。

それからワタシは毎朝ぼっちと会った。いつも同じ場所でワタシを待っている。朝方には見かけない日もあるが、それでも午後ワタシが帰る頃までにはどこからかふいに現れて、地面に膝をついて黙々と雑草取りをしているワタシをたびたび驚かせた。

そうしているうちに、生まれてこのかた薄情で鳴らしたワタシもぼっちに情を感じてゆき、気がつけば朝昼とごはんをあげたり、冬毛をすいたり、このたいしてなつかない(それどころか、ときに引っ掻き、ときに噛みつく)野良ネコのことをあれこれ気にかけるようになる。

ぼっちがほぼ盲目だと気づいたのはそんな日々がすこし過ぎてから。

ぼっちがまだちいさかった頃のことを記憶している年寄り(彼はお寺の本堂周りの掃除担当)の語りでは、ぼっちの父はかつてこの寺領のボスネコで、子に自分の食べ物を与えなかったため、ぼっちは栄養がゆき足りず視力を弱めてしまったのだろうとのことだった。

とはいえ、ほぼ野生に育ったネコの能力は高く、最初はほんの数十センチの高さから降りるのもためらっていたぼっちは、やがてほかのネコたちとなんら変わらない動きを見せるようになった。おそらく、視力以外の感覚が優れていたのだろう。それと、近くのものはまるで見えないふうだったが、すこし離れた場所にあるものはなんとなく見えていたと思う。毎朝ワタシの姿を見つけてトコトコと歩み寄ってきたぐらいだから、たぶん。

ぼっちはめっちゃケンカが強かった。

考えてみれば、盲目の野良ネコにとってすべての生き物は敵でしかない。とくに自分に近寄ってくる他のネコに対しては徹底的に排撃した。そんなときのぼっちの唸り声は人間のワタシもたじろぐほどで、相手のネコはその場で完全に固まるばかりだった。いつもはいわゆる「猫なで声」しか発しないぼっちだったが、争いのときには地獄の番犬を斥けるほどの気迫を見せた。

だがその強さの陰で彼が失ったものもある。

ぼっちには、彼のことをいつも心配して近寄ってくるメスのネコがいた。ワタシが勝手に「ジェラール」と名付けたその白に黒ブチの超絶美人ネコは、まだ年若い捨てネコだった。

ワタシには彼女の汚れたままの首輪が哀しかった。せめて外して洗ってやりたいと思っても、すでに人間を疑う習性を身につけた捨てネコを捕まえることは容易ではない。無理に捕獲しようとしたらひどい目に遭わされていたことだろう。

そんなジェラールも、ぼっちにだけはいつも好意を見せていた。

きょうびのネコは飼いネコか野良ネコにかかわらず断種されていることが多いため、最初から完全な野良ネコとして生きてきたぼっちが(とくに彼のキンタマが)彼女には必要だったのかも知れない。もしそういう理由じゃなかったらゴメンね、ジェラール。

ところが、ぼっちはあろうことかジェラールのことすら敵とみなした。

野生のネコの生存戦略に例外はないのだ。忍び足の天才だったジェラールがそっとぼっちの背後に回っても、彼女に気づいたとたんぼっちは徹底抗戦した。

ワタシはその哀しいやり取りを何度見せつけられたろう。しまいには、ある日を境にジェラールもぼっちをあきらめてしまった。ジェラールがぼっちに近づくことは二度となくなり、ぼっちは本当のぼっちになってしまった。


いくつもの季節のあと、そんなぼっちとワタシにも別れのときがきた。

今年の夏、ワタシは急に仕事を変えなければならなくなり、3年にもなったぼっちとの毎日が突然終わりを告げた。

ぼっちとサヨナラした日以来、ワタシは彼と会っていない。


最後に、見出し画像の写真について、すこしだけ話したい。

2年ほど前のある日、墓地のなかでとても哀しいことが起きた。

ぼっちの数すくない友だち(すくなくとも距離をおけば攻撃対象にならなかったネコ)のひとりが、とあるお墓の敷地で遺体となって見つかったのだ。

お墓参りに来た方からの知らせでワタシは急いで駆けつけた。そこには、鋭利な何かで喉元を切り裂かれて果てたミケ(まだ若かった三毛ネコ)の姿があった。

血の跡がなかった。つまり亡くなったのはそこではなかったということ。どこかで、おそらく人間の手によって殺されたのだろう。

近くでよく見知ったカラスが鳴いていた。彼らがミケの死をワタシに知らせるためにここまで運んできてくれたのだと思う。

ワタシは同僚のひとりとともにミケを墓地の片隅に葬った。とても虚しいことだが、人間のなかには面白半分に動物の生命を奪う者もいる。そういう世界に同じ人間のワタシも生きている。ヒトとネコがわかり合えるのはずっと未来のことかも知れない。

その日、なぜかずっとぼっちの姿が見えなかった。急に胸騒ぎがして、ワタシはぼっちを探して回った。

ほどなく、ぼっちが見つかった。ミケが横たわっていたお墓のすぐ近くで、じっとうずくまっていた。

もともと活発に動き回るネコではなかったが、こんなに元気をなくした姿は初めてだった。ワタシは声をかけながら、そのカラダを撫でた。いつもなら確実に引っ掻かれるのに、ぼっちはじっとしたままだった。

そのとき、ぼっちの涙に気がついた。

墓地にいると、不思議なことばかりだ。ネコが泣くわけがない。でも、たしかに両目から涙を流している。野良ネコだから、ときどき目ヤニができて目の周りが濡れていることはあるが、そうじゃなかった。

そのとき、自分が見たものを残しておきたい一心で、ぼっちには申し訳なかったけれど撮らせてもらった写真が、見出しの写真である。

この写真ではぼっちの涙がよく見えないけれど、彼はワタシがそっと離れてゆくときもそのままそこに居続けた。

ぼっちは、たまに本堂の屋根の上で(すこし距離をおいて)いっしょに日向ぼっこしていたミケのことを思い出していたんじゃないだろうか。

目がよく見えないから、いつも臆病でいなければいけない、いつも誰かと敵対していなければいけないぼっちも、やっぱり寂しかったんじゃないだろうか。


ぼっちとサヨナラして、やがて秋が来て、そして冬。

いまでもあのネコは、広い墓地の片隅でしっかりと生きているだろうか。

ぼっち、いつかまた、どこかで会おう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?