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2021.12.28 つめたい部屋

 今年も終わる。いつも日記に書いているようなことを、今夜はnoteに書いてみようと思う。

 今、コメダ珈琲でこの文章を書いている。今年の夏に引っ越しをした。その家は友人に「ほぼ外」と言われるような男子寮で、エアコンなどは当然なく、共同の風呂も壊れていて、最近は本当に寒い。おまけに私の部屋だけWi-Fiが届かない構造だから、自然と家にいる時間が短くなった。今年は色々な過ちを犯して、だからその贖罪のような気持ちでその部屋に住んでいるのだけれど、友人が遊びに来る(そんな部屋に遊びに来てくれる友人がいるのは本当に光栄で幸福なことだと思う)時以外、その部屋は死んだように冷たくなっている。壁も冷蔵庫も本棚も何もかもが、朝起きたら息をしていない。部屋に出没する虫に最初は殺虫剤を片手に奇声をあげながら血眼で追い回したりもしたけれど、その虫の名前を調べて、生態を知っていく過程で恐怖心はそぎ落とされ、今は殺さずとも部屋の外に出せるくらいの冷静さを持っている自分に驚く。知ることは良いことだけれど、それは新鮮な驚きや興味を失うことと同義なのだとそこで気づく。今年もたくさんのことを知って、たくさんの感情を腐らせた。つめたい部屋では食事を摂る気も起きず、料理をすることもなくなった。今年で五キロほど落ちて、母は「夏は太っていたからちょうどいい」と笑う。誰も悪くない。ひとりにしないでくれ、と部屋のどこかで静かに息を潜めるその虫に問いかける。羽がないだけで飛べないのは私も同じだと思った。それが虫か、人間であるかの違いだけだと思った。廊下の壁には三か月前の電気代の催促の用紙が汚い画鋲で貼り付けられている。ライフラインは生死に関わる基準の低いものから順に、つまり「電気→ガス→水道」という順番で止められるらしい。この前一度電気が止まった。三つあるハートマークのライフが一つ消えたような気分だった。電気が止まるとヒーターもこたつも使えなくなるから個人的には電気が一番大事なのだけれど、それでも自らに課せられた支払いという義務をきちんと果たさなければ、暴力的に電気は止まることをこの身を持って知った。

 ここまで書いて、今の私がとてもネガティヴで、悲観的なように捉えられてしまうかもしれないが、そうでもない。私の大好きな嵐の「Once Again」という曲で

「より高く飛ぶために低くしゃがむ事だって僕らには必要」

と櫻井翔はラップのフロウに乗せて歌う。とどのつまり今がそういう時期なだけなのだと思う。今抱えているあれこれは全て来月には落ち着くのだけれど、その来月末というゴールが、宇宙の起源のように遠く感じる時もあれば、近所のコンビニエンスストアのように近く感じられる時もある。貯金もちょうどその時期には徐々に潤う予定なのだが、それまでは低空飛行を続ける見通しだ。そんな状況でも生きていけるのはひとえに周りの人間関係に恵まれているからである。家族も恋人も友人たちもどうして自分のような人間と一緒にいてくれるのか、本当に意味がわからないのだが、聞いても誰も答えてくれないのは野暮というものだったのだろうか。それでも私は何度もしつこく聞いてしまうような性格なのだけれど、何度も聞いて「どうして本当にお前と一緒にいるんだっけ」と目が覚めても困るので、そろそろ聞かないようにしようと思う。

 まだ、コメダ珈琲にいる。換気のために窓が開けられていてとても寒い。そろそろ帰れということなんだろうけれど、もう少し粘ろうと思う。いつからか年末に家族の顔を見なくても平気になった。

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