日本の醜さについて

日本人は本当に集団主義的なのか!?〜『日本の醜さについて』

◆井上章一著『日本の醜さについて 都市とエゴイズム』
出版社:幻冬舎
発売時期:2018年5月

日本人は欧米人に比べ集団主義的であるとよくいわれます。それは本当でしょうか。建築や都市景観に関しては、西洋と比較して日本人は集団主義的とは到底いえない。むしろ個々人が自由を謳歌している。井上章一はそのように主張します。じつにおもしろい。

欧州は日本と違い、近代的な自我をふくらませてきたと認識されてきました。しかし欧州の古い都市を歩くと気づくことがあります。古びた建物をそのまま使い続けている。街区を成り立たせている建造物群は互いに似通っている。個々の建築が自分たちの個性を主張することはあまりありません。
つまり、建築や都市計画に関しては、欧州の方が日本に比べはるかに集団主義的に構成されています。彼の地では建築家の自由な表現がなかなか許されません。

対して、日本では欧州よりも表現上のしばりは弱くなっています。京都のような観光都市ではいくらか景観規制があるものの、パリやフィレンツェと比べれば建設側の自由を認める度合いは強いといえます。

日本のそのような状況について、イタリア人建築家のファブリツィオ・グラッセリは「不動産業者や金融機関、政治家たちの利益のためにだけつくられた街」のあり方に眉をひそめ、乱雑な東京の街並を批判しました。
その一方、イギリスのサイモン・コンドルは「急速に発展した都会の街並み、心をときめかせる新しさ、東京には表現豊かな建築をつくる機会が限りなくあるように思えた」と肯定的に評価しました。

井上はそうした好対照の見方を紹介しながら、日本の建築家が世界的に活躍している背景をそこに見てとっています。すなわち日本人建築家の世界的な活躍は「乱雑な街並の副産物でもある」のだと。
いずれにせよ、建築や都市づくりに関するかぎり、近代以降の日本人は比較的自由に活動することができたことは間違いありません。

本書の面白味は、そのような主張に坂口安吾批判をからめている点にもあります。
日本の近代化は坂口安吾が《日本文化私観》で提示した考えに沿ってすすんだともいえます。安吾は建築を「ある観念の代用品」としてのみ位置づけました。どのような技術を凝らそうとも、建築は結局、観念そのものに及ばないと決めつけました。たとえば、龍安寺の石庭は深い孤独やサビを表現しようとしたが、人びとが心に思う観念の大きさには至れない、と考えたのです。ゆえに安吾は、仏教と僧侶さえいれば、寺などは焼けてもいいと言い切りました。そのような考え方は、建築は使い捨てでかまわないという、ブルジョワたちの都合でできた現代日本の街並と同じ線上にあるといえます。

「イタリアかぶれ」を自称する井上が安吾のような認識を否定するのは当然でしょう。周囲との調和や都市景観を軽視した日本の近代化は「強いエゴイズム」の発露と井上はみなします。日本人は建築や都市景観に関するかぎり集団主義的とはいえません。むしろ自我のおもむくままに表現してきました。しかしそのことをもって日本の近代化を自慢することもできないのです。

本書では、そのほかにカーネル・サンダース、ペコちゃんなど店頭に置かれる人形の日本独自のあり方や、お城の再利用をめぐる和洋の文化的差異などさまざまな問題が考察されています。また第二次世界大戦時、イタリアがローマ空襲後にすぐさま降伏の動きに入ったことを街並保存の観点から検証しているのは本書のコンテクストのなかに収まるものでしょう。

日本人の集団主義的な行動規範はこれまで否定的に論じられることが多かったと思います。それに対して、井上は日本が集団主義的でない分野について言及し、その事実を批判するのです。その点では新しい切り口の日本文化論といえそうです。

さらに、井上は日本の社会科学者たちが建築や街並という目にみえるものに注意をはらわず、「ヴィジュアル面ではうかがえない何かを、抽出しようとした」こと、「近代的な精神、あるいはエートスとでもいったものを、彼らはさぐりつづけた」ことを同時に糾弾しています。その意味では本書は日本の社会科学批判の書とも言うことができるかもしれません。 

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