終わりと始まり2

物事がひとりでに片づくことはない〜『終わりと始まり2.0』

◆池澤夏樹著『終わりと始まり2.0』
出版社:朝日新聞出版
発売時期:2018年4月

文学者にもし社会的役割があるとすれば、そのひとつは一昔前なら一般庶民の良識や常識を疑ってみたり、斜め上から世間を観察したり、というようなことがあったように思います。作家のエッセイには《無作法のすすめ》のようにしばしば挑発的な書名が付けられ、凶悪事件の犯人にエールをおくる言説が平然と雑誌に掲載されるようなこともありました。文学者のそのような言動を手放しに肯定するつもりはないけれど、それを読んで「不謹慎」といちいち眉を顰めたりする読者もあまりいませんでした。

ところが最近はポリティカル・コレクトネスの考え方が浸透したこともあってか、政治的倫理的な「正論」が強く求められるようになってきたと感じます。文学者もまた野暮を承知で生真面目に民主主義や憲法の理念を説かなけれなならない時代がやってきたのです。

その背景として公権力者たちの所業が異様なレベルにまで非常識化してきたことが考えられます。文学者が斜に構えていられるのも平和で安穏な社会があってこそ。
ネットで一般読者が容易に意見を発信することが可能になり、作家への苦情がダイレクトにとどきやすくなったことも影響しているかもしれません。以前よりも文学者のお行儀の良い文章や発言を目にする機会が増えた(と感じられる)御時世は、幸福なのか不幸なのか。

さて、本書は池澤夏樹が朝日新聞に連載したコラムを書籍化したものです。収録されているのは、2013年4月から2017年12月までの掲載分。話題は多岐にわたりますが、震災・原発事故や世界情勢に言及したものが多く、安倍政権への辛辣な批判も随所にみられます。先の文脈に照らすと、おおむね「正論」調で綴られたコラムといえばよいでしょうか。政治家たちの非常識や暴走を糾弾するような調子が基調になっているように感じられます。

原発輸出に対して「今から原発を売るのは真珠湾の作戦計画を売るようなもの」と鋭く批判し、「人の記憶にも半減期がある」と原発事故の風化への警鐘を鳴らす。

白井聡や矢部宏治ら若い書き手の著作を引用しながら、日本の主権のあり方について憂慮を示し、その回復の必要性を訴える。その一方、最近ではリベラリストや左翼論客のあいだでも好意的に論及されることの多い近代保守思想を自認している中島岳志に対しては「そこに欠けているのは怒りだ」と忌憚なく注文をつけているのも目を引きます。

中東やアフリカの混乱など海外の政治情勢に言及する際には、現地の友人である固有名が出てきたりして、けっして机上のコメンテイター風にならないところにリアリティが醸し出されます。池澤が見ているのは統計上の数字やデータではなく、かけがえのない一人ひとりの個人です。

むろんそうした世界の喧騒ばかりに論及しているわけでもありません。逗子海岸映画祭の祝祭感を言挙げし、アボリジニの芸術を愛で、木下順二原作の舞台《子午線の祀り》の世界に遊びます。

政治と経済は分断するが文化は結ぶ。文学によってアゴラ(広場)を活性化すること。ケレン味なく文学者としての矜持を示して締める姿勢には、賛同したく思います。

ちなみに書名は末尾に引かれているヴィスワヴァ・シンボルスカの詩《終わりと始まり》から採ったもの。

戦争が終わるたびに/誰かが後片づけをしなければならない/物事がひとりでに/片づいてくれるわけではないのだから
誰かが瓦礫を道端に/押しやらなければならない/死体をいっぱい積んだ/荷車が通れるように(沼野充義訳)

たいへん印象的な詩篇ですが、「戦争」は、たとえば「原発」にも置き換え可能かもしれません。その意味では現代の日本人にとっても切実な詩というべきでしょう。

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