憎しみに抗って

「不純」な世界で生きていく〜『憎しみに抗って』

◆カロリン・エムケ著『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』(浅井晶子訳)
出版社:みすず書房
発売時期:2018年3月

社会的弱者や社会の少数派の人びとに対する差別行為が世界規模で広がっています。標的とされるのは、紛争地からやってきた難民、白人中心の社会に住むアフリカ系の住民、トランスジェンダー……。

カロリン・エムケは、世界各地の紛争地を取材してきたフリージャーナリスト。本書では、特定の属性に向けられる差別や偏見に対して「憎しみ」という感情からアプローチすることで、そこに共通する構造を浮かび上がらせます。憎しみはあらかじめあるものとして他者に向けられるのではなく、人為的に作られていくことに注目するのです。「憎しみを、それが猛威を振るう瞬間よりも前の段階で観察すれば、別の行動の可能性が開ける」とエムケはいいます。

差別する者の周辺には必ずといっていいほど「傍観者」が存在します。傍観者は「自分では憎まない」が「他者に憎ませる」。いわば憎しみの共犯関係を結ぶことで、差別はより広範なものになっていくのです。

憎しみが少数者に向けられる時、あるいは憎しみの共犯関係が少数者に対して形成される時、現在ではそれが時に政治的に正しいかのような様相を見せることさえあります。たとえば、国民の仕事が少なくなったのは違法的な移民が増えたせいだと。しかし多数者の抱く国民の均一性など所詮は虚構的なものです。

……全員が「地元民」であり、移民はおらず、多様な言語も多様な習慣や伝統も、多様な宗教もない、そんな国民の均一な「核」なるものが国民国家において最後に存在したのはいつか? そしてどこか? 「国民」という概念に持ち込まれたこの有機的な均一性は、確かに強力な魅力を持ってはいるものの、結局のところ空想の産物に過ぎない。(p114)

その観点からすれば、ISが掲げる理念も当然ながら正当化されることはありません。テロリズムという方法が誤りであることは言を俟たないけれど、彼らの唱える「純粋性」なる概念もフィクショナルなものです。彼らの憎しみと暴力もまたイスラムとは無関係の「全体主義イデオロギーを持つテロ組織によって人為的に作り出されたもの」です。

かくしてエムケは「不純なものへの賛歌」を高らかに謳います。ハンナ・アレントの『活動的生』を参照して彼女の提起した「複数性」を称揚します。さらにはミシェル・フーコーが再定義した「パレーシア」の重要性に言及します。パレーシアとはギリシア語で言論の自由を意味することばですが、フーコーは権力者の意見や立場を批判して「真理を語ること」という意味に発展させました。そこでは操作やレトリックを用いずに「真理であると本当に信じて」いることを誠実に語ることが求められるのです。

語る者は、語ることで危険を冒している。そのためには勇気がいる。フーコーが強調するのは、「真理を語るという勇気ある行動は義務であるのみならず、語る者を自由と結びつけもするということだ」といいます。「その自由とは、語ることによって現れ、実現するものだ」。

具体的な事例を取り上げながら、政治哲学的な概念を引用したまとめ方には、やや茫漠とした読後感なきにしもあらずですが、著者の教養に裏打ちされた考察には教えられるところも多々ありました。

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