ネガティブ_ケイパビリティ_Fotor

共感や寛容の精神の礎となる〜『ネガティブ・ケイパビリティ』

◆帚木蓬生著『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』
出版社:朝日新聞出版
発売時期:2017年4月

ネガティブ・ケイパビリティ。──どうにも答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力。あるいは、性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力。精神科医にして作家でもある帚木蓬生は本書においてそのような能力を称揚します。

この概念を世界で初めて口にしたのは詩人のジョン・キーツ。兄弟に宛てた手紙のなかでシェイクスピアがネガティブ・ケイパビリティを有していたと書き残しています。文学者にとってそれが大切な資質だと考えたのでしょう。
170年後、精神科医のウィルフレッド・R・ビオンがネガティブ・ケイパビリティに言及します。キーツを引きながら自身の専門である精神分析の分野においてもそれは不可欠だと注意を促したのです。

「きれいは汚い、汚いはきれい」。──シェイクスピアの『マクベス』のなかに出てくるフレーズです。ある一つの命題を簡潔に言い切るのではなく、両義的な意味合いを含んだ言葉。本書の文脈においてこれはいかにも象徴的なセリフでしょう。
ざっくりいえば「不確実さが、大きな塊として目の前に放り出されているので、あとは読者が読み説くだけ」というのがシェイクスピアの世界だと箒木はいいます。

ところで精神分析学には蓄積された膨大な理論があります。患者を治療する時にはその理論をあてはめていけばよい。ビオンがネガティブ・ケイパビリティを評価した背景にはそうしたマニュアル第一主義に対する懸念があったようです。マニュアルに頼ると、生の患者と生の治療者との一期一会の出会い、交わされる言葉の新鮮さと重みが台なしになってしまうと危惧したのです。

実際、箒木もまた精神医療の現場では治療者にできることは限定的であり、長く治療していても患者の状態が改善しないということを経験してきました。医療現場では問題解決能力が役に立たない場面は少なくありません。また終末期医療では身体の状態を正規なものに戻すという役目は求められません。死にゆく不安に苛まれるけれど、それは正常な不安であり、病的なものではないのです。

……ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐えぬく力です。(p77)

そのような考察を経て吐露される「医師が患者に処方できる最大の薬は、その人の人格であるという考え方は正鵠を得てい」るという箒木の述懐は実感のこもったものでしょう。

箒木は、また創造行為をする芸術家の認知様式に注目した論文にも着目しています。その特徴的な能力とは、対立する曖昧な情報を統合する力、言い換えると、二つ以上の正反対の思想や概念、表象を同時に知覚して使う能力であるといいます。

箒木はそうした傍証を参照しながら、真の創造行為にはネガティブ・ケイパビリティが欠かせないと考え、シェイクスピア以外にもその実例を見出します。そうして『源氏物語』をネガティブ・ケイパビリティの観点から読み説くことに一章を割いているのはまことに興味深い。詳しい解説は省きますが箒木の結論的な読みは以下のようなものです。

 物語を光源氏という主人公によって浮遊させながら、次々と個性豊かな女性たちを登場させ、その情念と運命を書き連ねて、人間を描く力業こそ、ネガティブ・ケイパビリティでした。もっと言えば、光源氏という存在そのものがネガティブ・ケイパビリティの具現者だったのです。この宙吊り状態に耐える主人公の力がなかったら、物語は単純な女漁りの話になったはずです。(p171)

箒木はまたネガティブ・ケイパビリティに関連する心性として「共感」や「寛容」を重視しています。ネガティブ・ケイパビリティのないところに共感や寛容は育ちません。後半では、そのような考え方をさらに拡張しながら世界平和の構築にも寛容やネガティブ・ケイパビリティが不可欠であることを力説するのです。

こうしてみるとネガティブ・ケイパビリティに類似する能力はこれまでも他の論者によって言及されてきたようにも思われます。たとえばロラン・バルトは愚か者を「すぐに結論を出したがる者」と定義しました。これなどもネガティブ・ケイパビリティと相通ずる認識ではないでしょうか。

いずれにせよ、ネガティブ・ケイパビリティという明快な概念を提示したビオンや箒木の仕事は貴重なものです。ただし権力者が弱者に対してこの概念を悪用しないように留意する必要はあると思いますが。

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