なぜ世界は存在しないのか

存在の複数性を認める新しい実在論〜『なぜ世界は存在しないのか』

◆マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)
出版社:講談社
発売時期:2018年1月

新しい実在論を唱えるドイツの哲学者として世界的に注目を集めているらしいマルクス・ガブリエルが一般向けに平易に書いた哲学書の全訳版です。
まず正直に告白しておけば、本書の内容を十全に理解できたと確言する自信はありません。ゆえに以下に掲げる批判まじりの素朴な感想は、哲学の素人である私の読解力不足に起因するものであるかもしれないことを最初にお断りしておきます。

2011年、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスとともにガブリエルは新たな哲学を提唱します。「新しい実在論」とみずから呼ぶものです。それはポストモダン以後の新たな哲学的態度として企図されました。

新しい実在論とは何でしょうか。本書では「形而上学」と「構築主義」の二つを批判する形で、その全貌をあらわします。

形而上学は、いかなる事象でも人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在することを主張します。ひとつの事象がもつ複数の様相は、どれも認識主体の主観的な偏向による幻想であって、当の事象の本質に還元されうるとする考え方です。いわば本質主義です。

一方、構築主義は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定します。ひとつの事象にはさまざまな認識主体によって見られた複数の様相しか存在せず、それらの諸様相の交渉から当の事象イメージが社会的に構築される、と考えるのです。本質主義に対して相対主義といえるものです。

ガブリエルの新しい実在論は、その両者を否定しつつ包み込みます。さまざまな認識主体による対象の構築を認める。と同時に認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在をも認めます。「わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している」。

その考え方からすれば、宗教上や芸術上の虚構的なものも自然科学が対象としている物質と同じ権利で「存在」するということになります。

物事の実在は、特定の「意味の場」と切り離すことはできない。言い換えれば、世界全体を統べるような「意味の場」や原理などはありえません。自然主義によれば「自然科学の領域へと存在論的に還元されうるものだけが存在しうるのであり、それ以外のものはすべて幻想」にすぎないと考えますが、そのような態度をガブリエルは断固として斥けるのです。

すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。それはちょうど、植物学を研究しているからといって、およそ存在するものはすべて植物であると考えるようなものでしょう。(p44〜45)

「すべてを包摂する唯一の世界が存在する」というのは幻想である。かくして「世界は存在しない」というテーゼが新しい実在論の名のもとに提起されることとなりました。もちろん、それはニヒリズムとは異なります。むしろ私たちの一元的で単調な思考から解放するものであるといいます。

世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。(p292)

一元的な原理を否定するという点では、民主的な哲学といえるかもしれません。そのことをいささか通俗的な形で述べているくだりも引用しておきます。

ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。じっさい、だからこそ民主制は全体主義に対立するのです。すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない──この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。(p269)

本書のオビにも推薦文を寄せている千葉雅也は、このようなガブリエルの哲学に対して、ドイツの歴史的位置を考慮に入れ、政治的文脈に置き直したうえで興味深い論評を加えています。

……ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。(講談社〜現代ビジネス ウェブサイトより)

とはいうものの本書に対する評価は人によってはっきり賛否がわかれるかもしれません。日本ではどちらかといえば批判的な論考をみかけることが多いように思われます。
私自身、「これも存在する、あれも存在する」という存在の多元性をあっさりと認めようとする考え方には今ひとつ納得できませんでした。もっとも違和感をおぼえたのは、新しい実在論を提起するにあたって自然主義や自然科学を戯画化したうえで批判しているように感じられる点です。

そもそも自然科学者たちは本当にガブリエルが言うように自然科学的な方法のみをもって対象を理解しうると単純に考えているのでしょうか。彼らが、小説における架空の登場人物が「現実に存在する」ことを認めるに消極的であったとしても、文学の価値や意義を貶めているわけではありませんし、想像的なものの「存在」を否定する態度をもってただちに自然科学(的方法)のみを特権視していると断じるのは早計でしょう。
ホーキングが「哲学はすでに死んでしまいました」と言明しているのを引用し少しムキになって反論していますが、哲学に対するホーキングの偏見が自然科学を代表しているわけでもありません。

「一角獣も、人が見る夢も、すべて存在しているのだ」という認識は「民主的」といえばいえるかもしれません。ガブリエル自身が「民主制」という言葉を持ちだして説明しているのは俗耳にも入り易いでしょう。が、哲学的思考の精度という点からすれば、ずいぶん粗雑な提題との印象もまた拭い難く感じられました。

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