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かくて私には歌がのこつた〜『中原中也 沈黙の音楽』

◆佐々木幹郎著『中原中也 沈黙の音楽』
出版社:岩波書店
発売時期:2017年8月

中原中也の詩は現代詩や文学の愛好者だけでなく現代のミュージシャンたちにも幅広く親しまれてきました。友川かずきをはじめ、小室等、おおたか静流らが中也の詩に曲をつけています。加藤登紀子の『いく時代かがありまして』も中也の代表作〈サーカス〉の冒頭の詩句を引用したものです。

中原中也の詩のなかにある「歌」を聴く。それは最終的には「沈黙の音楽」としてある。──本書は、みずからも詩人でもあり1998年に評論『中原中也』でサントリー学芸賞を受賞した佐々木幹郎ならではの秀逸な中原中也論です。

開巻そうそうに記された「中原中也が詩のなかに、字下げの箇所を作るようになったのは、おそらく詩の言葉のなかにある『音楽』を意識したからだろうと思われる」との指摘はいわば本書のメインテーマを奏でる前の序曲といった趣です。

実際、中也は諸井三郎ら同時代の音楽家たちとも交友し、生前にも自作の詩に曲をつけてもらうことが何度もありました。しかしそういう次元の話にはとどまりません。佐々木は中也の詩を徹底的に読み、その言葉に「歌」を聴き、音を聴き、それが究極的には「沈黙の音楽」として成立していることを全編をとおして論じているのです。

ここでクロースアップされるのが岩野泡鳴です。彼は評論『神秘的半獣主義』のなかで「言語も表象であれば、音響も表象だ」と述べ、言語と音響とを並立して論じました。これは当時としては画期的なものであったといいます。中也がこの評論を読んだかどうかは定かではありませんが、泡鳴から様々な影響を受けたことはよく知られています。

  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
  はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
 (『在りし日の歌』所収〈曇天〉より)

佐々木によると、この詩は泡鳴が『新体詩の作法』で、日本の詩は二、三、四音を音律的な基礎としていると論じたことに従ったもので、彼が提唱した分かち書きの記述法で書かれています。

……中也が目指していた「歌」と「声」は、この作品に見られるように、岩野泡鳴と呼応して、日本の詩語のなかに、文字化されることによって削り取られてしまった身体的なリズムを回復しようとしていた。しかも、「ゆたりゆたり」とした「旗」のなびく反復運動の音は、無音(沈黙)であることが重要で、それが究極の「歌」として成立したのである。(p143)

佐々木は、むろんこの詩だけでなく他の作品にも沈黙の音楽を聴き取ろうとして緻密な読解を披瀝していきます。とりわけ〈汚れつちまつた悲しみに……〉〈生ひ立ちの歌〉など雪が登場する詩作品から、雪の声を聴く論考は本書の核心を成すものでしょう。

もう一つ「歌」に関連して興味深く思ったのは、中也が「民謡」の作詞をしていたことです。彼は晩年に極度の神経衰弱を患い入院生活を送りましたが、そこで「療養日誌」をつけていたらしい。1999年に発見されたその日誌に「民謡」が記されていたのです。中也の熱心な読者にはよく知られた事実かもしれませんが。

 丘の上サあがつて、丘の上サあがつて、
  千葉の街サ見たば、千葉の街サ見たばヨ、
 県庁の屋根の上に、県庁の屋根の上にヨ、
  緑のお椀が一つ、ふせてあつた。
 そのお椀にヨ、その緑のお椀に、
  雨サ降つたば、雨サ降つたばヨ、
 つやがー出る、つやがー出る(p241)

病棟にあっても詩人であること、という強い意志がこの俗語で書かれた詩には秘められているように思う、と佐々木は書きます。そして、中也は詩人としての自分を認めよと院長に伝えたかったのだ、とその心中を推し量るのです。

中原中也は、若い頃に短歌をつくることで詩人としての才能を発揮し始め、長男を失ってもそれゆえに神経を病んでも、詩人であること歌うことを希求し続け実践しました。そのすがたが本書からはひしひしと伝わってきます。自筆原稿などの新発見資料を丁寧に読み込んだ解釈は、時に細かで専門的な議論に傾きますが、本書から立ち上がってくる中原中也像には中原文学を読み味わうのに新たなヒントが随所に刻まれているような気がします。

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