五箇条の御誓文で解く日本史_Fotor

明治維新150年を貫く基本精神〜『「五箇条の誓文」で解く日本史』

◆片山杜秀著『「五箇条の誓文」で解く日本史』
出版社:NHK出版
発売時期:2018年2月

明治維新、ひいては近代日本の基本精神は「五箇条の誓文」に示されているのではないか。2018年は明治維新150年にあたりますが、その全期間を貫くものとして、片山杜秀は「五箇条の誓文」に注目します。本書は有名企業幹部が学ぶ白熱講義を新書化するシリーズの第3弾として刊行されたものです。

明治を代表する憲法学者の穂積八束は、五箇条の誓文こそ近代日本の最初の憲法であると述べたといいます。また戦後、昭和天皇が「人間宣言」を発した時にも五箇条の誓文を引用し、この趣旨に則って「新日本を建設すべし」と語りました。明治維新から150年を経た現代日本の状況を、五箇条の誓文に照らして再考することに意義があると考える所以はそれらの事実にも基いています。

五箇条の誓文は、片山流に要約すれば以下のようになります。

・民主主義のすすめ
・金儲けと経済成長のすすめ
・自由主義のすすめ
・天皇中心宣言
・学問と和魂洋才のすすめ

近代日本の歴史は、その五つの誓文のいずれかが強く押し出されたり弱められたりする政治力学の変動によって記述することができると片山は考えます。

第一条の民主主義や第三条の自由主義は明治で離陸して大正デモクラシーの時代にある程度実現される。第二条の経済発展も明治から大正までまずまず順当に運んだ。ただ大正期の一条や三条は、第四条の天皇と齟齬をきたす場面も出てくる。世界大恐慌でグローバリズムへの信任が下がると、第四条と第五条の中に眠っている「攘夷」が手を携えて、第一条や第三条を抑止するようになる──というのが大まかな推移といえましょう。

ところで、明治憲法下では徹底した権力分立が行われました。明治の元勲たちは「第二の江戸幕府」が生まれないように権力を分散したのです。文言上は天皇に強大な権限が付与されているようにみえますが、実際には天皇が力をふるうことはありませんでした。天皇が有する「統帥権」についても人によって解釈はまちまちだったといいます。

では、誰が政治を動かしていたのか。明治期には「元老」という超法規的存在が大きな役割を果たしました。首相も内閣も元老が選ぶ時代がつづいたのです。

しかし第一次世界大戦を経て、総力戦体制を築くためにデモクラシーの必要性が叫ばれると、元老中心の政治にも批判が向けられるようになりました。当然ながら元老そのものもこの世から去っていきます。

元老に代わって役割を担ったのは、天皇機関説と政党政治を組み合わせた政治というのが片山の認識です。大正デモクラシーはそのようにして生まれました。

大正デモクラシーに関する片山の解釈にはとくに教えられるところ大でした。大正デモクラシーは「諸個人から社会へ、社会から国家へ向けた運動と捉えるだけでは本質を把握できない」。もうひとつの重大な面があるというのです。「国家総動員体制のためのデモクラシー」という側面です。「デモクラシーは民衆の要求だけではない。国家がデモクラシーを願望した。そういう部分が強くあるのです」。

どういうことでしょうか。第一次世界大戦では、専制政治の国が敗れ、民主政治の国が勝利しました。軍事的勝負としてはほぼ互角に推移したのですが、消耗戦になって、より忍耐強い国が勝利したといえます。民主制の国家では、国民が選んだ政治家が参戦を決意します。つまりトップの決断は国民の決断という形をとります。「自分たちで決めたことだから、やり続けなければならないと納得せざるをえない」のです。「デモクラシーのほうが総力戦体制には適している」との指摘には一理あるでしょう。

そういう意味では大正デモクラシーは昭和の総力戦体制を準備した側面のあることを否めません。ただし普通選挙法と同時に治安維持法が同時に導入されたことは注意を要します。

大正デモクラシーを見るとき、この普通選挙法と治安維持法はセットで捉えておくべきでしょう。国力増進のために民衆の政治参加は肯定された。しかし、その参加の仕方が、天皇中心の国体を壊す方向に働くことは許されません。(p120)

五箇条の誓文に照らせば、大正期にあっては第四条のもとで第一条が追求されたということになるでしょう。もっとも昭和維新期に入ると第一条の民主主義ははっきりと後景に退いていくのですが。

五箇条の誓文とはダイレクトに結びつきませんが、昭和維新へと続く大正維新では、大きく「アジア主義」「国家社会主義」「農本主義」の三つの思想が入り組んでいたことも述べられています。そのなかからアジア主義が残って、第二次大戦のスローガンとして浮上していくわけです。

昭和の戦争準備期に入ると、機能不全に陥った政党政治に代わる強力政治を実現する必要性が増大してきます。泥沼の日中戦争の只中で「強力政治」のかたちとして台頭したのが大政翼賛会運動です。しかしこれは右翼勢力の前に頓挫しました。昭和維新の三大イデオロギーの中でダメージ少なく残っているのは、アジア主義のみでした。

その後の議論は片山の『未完のファシズム』で展開された考察とも重なりますが、幕末のスローガンであった「尊王攘夷」は「大東亜共栄圏」の建設理念となって蘇ったものの、結局は壮絶に散りました。総力戦の時代には明治型の権力分立思想は、国家の意思統一をはかるには適切ではなかったといえます。

戦後日本が五箇条の誓文から再出発したことは冒頭でも紹介したとおりです。ただそれにしても、五箇条の誓文に照らしてみても現代日本のありさまはとても及第点とはいえません。
では、これからの日本に関してどのような構想を描けばよいのでしょうか。片山は「昭和維新の応用」を提案しています。

……国家社会主義の平準化思想を福祉と結び付け、同時に国家社会主義があわせ持つ成長志向や拡大志向の代わりに、縮み志向の農本主義の考え方を取り入れる。アジア主義からは帝国主義の成分を抜き取って連帯を模索し、アメリカ一辺倒の安全保障から日中、日露も込みにした安全保障環境へとシフトする。(p242)

いわば「縮み志向の昭和維新」とでもいうべきものです。もちろん、このような総論的な処方にはさほど拘泥する必要もないでしょう。片山が本書で展開してきた歴史的検証のなかにこそ、取り出すべきヒントがたくさん含まれているのではないかと思います。

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