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接続と切断のあいだに〜『動きすぎてはいけない』

◆千葉雅也著『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
出版社:河出書房新社
発売時期:2017年9月(文庫版)

FACEBOOKだのLINEだのと、とかく人と繋がらずにはおれないインターネット社会。現代人は好んでみずからのプライバシーを晒し、些細な情報までをシェアしあう。「接続過剰」の社会。そこではしばしばコミュニケーションは形式化し、ただ繋がることが目的化しているようにもみえます。

千葉雅也は、『朝日新聞』(2013年12月11日)に掲載された浅田彰との対談で、そのような接続過剰の状態が相互監視に等しくなってしまうことを憂慮し、「国家や企業が推進する『監視・管理社会』化を暗にサポートすることになっていないか」と問いかけています。
またその一方で、引きこもりやネグレクトなどの「切断過剰」的な現象が社会問題化して久しい。

今日の情報社会において「接続過剰」でも「切断過剰」でもない適度の共生の術をどのように考えるべきか。「接続」すること──連帯したり協力しあうこと──が無条件的に善と見なされることの多い現代の民主主義社会で、そのように問題を構えたところに千葉の斬新さがあるといえるでしょう。

本書において千葉はジル・ドゥルーズの再検討をとおしてその課題に応えようとします。鍵となる概念は《生成変化》。あらゆる事物は、互いに互いへ生成変化してやむことがありません。それはいかなる事物でもリゾーム状に関係しているということです。しかし、ドゥルーズは述べています。リゾームは適当な一点で切れたり折れたりしてかまわない、リゾームはそれ自身のしかじかの線や別の線に沿ってまた育ってくるのである、と。リゾームには「非意味的切断の原理」も含まれているのです。うまく出会うことだけでなく、うまくスレ違うこと。一貫性を多孔化すること。「動きすぎてはいけない」とはそのような意味を宿したメッセージといえるでしょう。

接続的/切断的の各面は、ドゥルーズのベルクソン主義/ヒューム主義に対応するという仮説を採用したうえで、千葉は『千のプラトー』をメインのテクストに据えながら、ドゥルーズの第一著作であるヒューム論『経験論と主体性──ヒュームにおける人間的自然についての試論』に遡って考察をすすめていきます。その理路をたどることは一般読者には必ずしも容易なことではありませんが、ドゥルーズ読解に新たな地平を切り拓く本書の議論は、息苦しい現代社会を生き抜くための一つの哲学的指針を示すものであることは確かだと思います。

もっと動けばもっと良くなると、ひとはしばしば思いがちである。ひとは動きすぎになり、多くのことに関係しすぎて身動きがとれなくなる。創造的になるには、「すぎない」程に動くのでなければならない。動きすぎの手前に留まること。そのためには、自分が他者から部分的に切り離されてしまうに任せるのである。自分の有限性のゆえに、様々に偶々のタイミングで。(p52)

なお本書は2013年に刊行された後、2017年9月に同じ版元によって文庫化されました。文庫版では気鋭のドゥルーズ研究者・小倉拓也が解説を寄せています。このレビューは2013年刊行書を読んでまとめたものですが、文庫化への祝意をこめて、ここに紹介する次第です。 

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