見出し画像

ネンブツは自由そのもの〜『一億三千万人のための『歎異抄』』

◆高橋源一郎著『一億三千万人のための『歎異抄』』
出版社:朝日新聞出版
発売時期:2023年11月

親鸞の言葉を弟子の唯円がまとめた『歎異抄』に関しては、昔からいくつもの現代語訳や解説書が刊行されてきました。親鸞の言葉をすべて関西弁に訳した光文社古典新訳文庫のような試みもあります。そこに朝日新書が新たに名乗りをあげました。本書は高橋源一郎による現代語訳と少し長めの解説を収めたものです。

かの有名な一説「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」はどの注釈書を読んでもしっくりと納得させられることはなかったのですが、本書はどうでしょうか。
高橋の現代語訳は以下のごとしです。

 善人でさえ、死んでからゴクラクジョウドに行くことができるのだから、悪人なら当然行けるはずだ。おれはそう思うんだ。わかるかい、ユイエン。
 ふつう、そうは思わないだろう。
『あんなひどいことをした悪人でさえ、救われてジョウドに行けるのなら、善人はもう無条件でゴクラクジョウド行き確定だよな』って思う。それがふつうの考え方だ。
 確かに、ぼんやり聞いていると「ふつうの考え」の、その論理は正しそうに思える。ユイエン、でもそうじゃないんだ。それは、おれたちが信じている『本願他力(ホンガンタリキ)』、つまり『すべてをアミダにおまかせする』という考えから遠く離れた考え方なんだ。(p35〜36)

当然ながら誰が訳そうとも「本願他力」の意味が問題になることに変わりはありません。さて高橋の読み解く「本願他力」とは?

 ユイエン、悪人ってなんだ? おまえにはわかるか? 生きてゆくためには、どうしても悪を選んでしまう人間のことだ。どうして人は、どんな悪とも無で生きてゆけるだろう。そもそもほかの生きものの命を奪わなければ、生きてはいけないというのに。
 だから、ユイエン。おれたち人間はみんな生まれついての悪人なんだ。そんな、悪人として生きるしかないおれたちを、アミダは救ってくださろうというんだよ。
 だとするなら、自分には、救われるための資格なんかなにもないと最初からすべてをあきらめ、アミダにおすがりするしかないと考えている悪人こそ、いちばんジョウドに近い人間ではないだろうか。
 自分の中にある悪に気づかない善人でさえ、ゴクラクジョウドにオウジョウできるとしたら、自分の悪を見つめて生きるしかない悪人なら当然オウジョウできる、というのは、そういう意味なんだよ(p37〜38)

高橋が読み取った「悪人」なる概念はキリスト教における人間の原罪とは異なるのでしょうが、まったく無縁とも思われません。歎異抄にとっても悪人とは奥深い概念であることを再認識させられました。

もう一点、念仏の意味についても高橋の読解は独特です。
「ネンブツとは自由そのもののことなんだ」というのです。むろんそのような解釈にはあまりにも現代的という批判もありうるでしょう。が、私は面白いと思います。それくらいの大胆な読みをしなければ、七百年以上も前に著された書物を今読むことの意味を積極的に感知することはむずかしいでしょう。

親鸞の宗教性は「非僧非俗」からやってきた、「宗教」というものを一度否定しないかぎり、「信仰」の奥底へは行き着くことができない、というパラドキシカルな解説も私には興味深く感じられた次第です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?