不屈の棋士_Fotor

人間にしか指せない手はあるか〜『不屈の棋士』

◆大川慎太郎著『不屈の棋士』
出版社:講談社
発売時期:2016年7月

将棋の世界は今世紀に入ってコンピュータの進化で様相が劇的に変化しました。人間を負かす将棋ソフトが台頭してきたからです。2013年に行われた第2回電王戦で現役棋士が初めてソフトに敗北しました。その2年後には、情報処理学会が「トップ棋士との対戦は実現していないが、事実上ソフトは棋士に追い付いた」との声明を出しました。

棋士の存在意義は端的に「将棋が強い」ことです。それでは人間よりもソフトの方が強いとなった時、人間がプロの看板を掲げたまま将棋を指し続けることはできるのでしょうか。棋士という職業はこれからも存在し続けることができるのでしょうか。

本書はそのようなテーマで現役棋士11人にインタビューした記録です。
ソフトを積極的に活用して悪びれることなくソフトが叩き出すレーティングを話題にする若手棋士。ソフトには背を向けひたすら自分の頭で考えることを重視する中堅・ベテラン。棋界の将来に不安を抱いている点ではおおむね共通するものの、自らが目指すべき方向や研究姿勢には相違も浮き彫りになる。とくに将棋ファンでなくとも楽しめる内容だと思います。

最初に登場する羽生善治の談話はあくまで慎重で、使用しているソフトも明かしません。が、ところどころで話が具体的になるのは興味深い。たとえばソフトの進化があまりに進むと「二日制はやりづらくなるでしょう」と述べています。封じ手時点でかなり進んだ局面になった時に、ソフトで調べている人にはすでにおおよその結論がわかってしまう。それでは二日目の興味はかなりそがれてしまうというわけです。

ソフトの進化に伴って「人間にしか指せない手はあるか」という問題がよく問われるようにもなりました。
渡辺明の答えは「人間にしか指せない将棋、というものはない」。対して勝又清和は、必ずしも合理性にとらわれない勝負手をコンピュータは指せないが人間には指せるといいます。
またソフト研究に熱心な西尾明が、ソフトには否定的な山崎隆之の名を挙げて「誰が見ても自分の特徴がくっきりと見えるような将棋を指したい」といっているのも印象に残りました。

ソフトの使用にもっとも熱心な一人が千田翔太。千田は良くも悪しくもデジタル的思考が徹底しています。棋力向上の内容を説明するときにレーティングの話を最初に持ち出すのがいかにも象徴的。ただし「自分はタイトルを獲ることを目標に勉強しているわけではない」とまで言われると年季の入った将棋ファンは反発するかもしれません。

ソフト隆盛の状況に懐疑的な態度を示しているのは、上述の山崎のほか佐藤康光、行方尚史。
山崎はソフトを使っている若手棋士に対して「尊敬する気持ちは消えましたね」と確言していますし、行方はタイトル戦の中継でソフトによる評価値が出ることに「はっきり言って不愉快ですね」と言い切ります。
また佐藤は棋士対ソフトの勝負に関して、勝ち負けばかりが話題になって棋譜の精査が行われていないことに疑義を呈している点は要注目でしょう。

そのようななかで、大学院では哲学を専攻している糸谷哲郎の発言は紋切型におさまらない独自の考えを示して彼らしいものです。ソフトの活用にはさほど熱心ではありませんが、あからさまな嫌悪感をもっているわけでもありません。
「ソフトが完全に棋士を上回って、棋士の存在価値がなくなることがあるとして、それ自体が危機なのか問題なのかもよくわかりません。それはソフトが進歩するということですし、将棋が究明されることに近づいているわけですから」。

本書刊行後の2017年、名人位をもつ佐藤天彦が第2期叡王の立場で将棋ソフトのポナンザと対戦して2連敗しました。人間とソフトの力関係はいっそうはっきりした感があります。棋士どうしの公式タイトル戦でソフトの予想手や形勢判断、評価値を紹介するネットの中継スタイルもほぼ定着してきました。将棋界は明らかに新しいステージに入ったといえるでしょう。

将棋の歴史は長い。ルーツはインドのチャトランガというゲームで、日本に伝来した時期は諸説あるものの、平安時代には将棋が行われていたといわれています。現行と同じルールになったのは500年前。将棋のプロ制度が始まったのは江戸時代です。

そうした悠久の歴史と伝統をふまえて精進を重ねてきた棋士たちが強いプライドと矜持をもつのは当然のことでしょう。将棋に関してはアマチュアである人々が開発した将棋ソフトに敗北したり、自分の手を評価されたりすることに抵抗や反発を感じるとしてもあながち時代遅れと一蹴するわけにもいきません。

本書が描きだす棋士たちのさまざまな感情や態度の表出のしかたには、なるほどクールなコンピュータにはありえない葛藤がにじみ出ているように思われます。そのような精神のありようを人間らしさと名付けてもいいのではないでしょうか。人間にとって感情の伴わない理性の発露などありえないのですから。

将来のことは断言できないけれど、将棋ソフトが今後どれだけ進化しようとも、私はやはり人間の指す将棋を見守りつづけることになるような気がします。

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