冷戦とクラシック_Fotor

音楽に国境があった時代の物語〜『冷戦とクラシック』

◆中川右介著『冷戦とクラシック 音楽家たちの知られざる闘い』
出版社:NHK出版
発売時期:2017年7月

戦後のある時期、世界は二つの陣営に分断されていました。アメリカをリーダーに戴く西側。ソ連を盟主とする東側。両大国が直接一戦を交えることはなかったものの、局地的な代理戦争は起きました。キューバを舞台に核戦争の懸念を世界に与える危機も経験しました。冷戦と呼ばれた時代のことです。

音楽に国境なしとよくいわれます。それなら冷戦という厳しい時代にあっても音楽は自由自在に国境を超えていくことができたのでしょうか。クラシックの音楽家たちはその時代をどのように生きたのでしょうか。
本書では、レナード・バーンスタイン、エフゲニー・ムラヴィンスキー、ヘルベルト・フォン・カラヤンの三人を中心に冷戦期のクラシック音楽家たちの活動を振り返ります。

戦勝国のアメリカで生まれ音楽教育を受けたバーンスタインは、比較的自由に活動できたうちの一人かもしれません。みずからの政治信条に基づいて果敢に冷戦の時代を駆け抜けましたが、それでもマッカーシー旋風の影響を免れることはできませんでした。1953年には共産主義者の疑いがあるとしてパスポートの更新が拒絶されました。当然ながら彼もまた時代の制約からは完全には自由ではなかったのです。

ソ連ではいうまでもなく国際的に著名な音楽家たちも厳しく管理統制されていました。そのなかにあってレニングラード・フィルの主席指揮者を長く務めたムラヴィンスキーの活動ぶりは興味深い。フルシチョフ政権からブレジネフ政権に移行したとき、文化大臣はムラヴィンスキーの更迭を画策したものの、果たせませんでした。キャリアの初期には共産党幹部の親族の庇護を受けてそれなりに有利な立場にあったことも見逃せませんが、それとともに世界的名声と自身の信念もまた彼の音楽活動を支えたといえるでしょう。

カラヤンはヒトラー政権下でナチス党員になって出世しました。そのため戦後しばらくの間は音楽活動に復帰することはできませんでした。しかし、1955年にベルリン・フィルを引き連れてアメリカへのツアーを行ないます。ベルリン・フィルの米国公演は、ソ連東欧ブロックに対する西ドイツの政治的立場を重視した米国の政治的思惑があって実現したもので、そのことを内外に示す象徴的な意味合いをも含んでいました。

この三人以外にも、もちろん様々な音楽家たちが登場します。
ドミトリー・ショスタコーヴィチの浮沈の激しい人生は、まさに政治に翻弄されたものといえそうです。才能豊かな音楽家が冷戦期の全体主義国家に生まれ落ちたことの不運を感じざるをえません。

日本でも人気のあるグレン・グールドがソ連でコンサートを行なうために、彼の母国カナダのほか、ソ連、アメリカの政府が動いたというのは1950年代ならではの挿話でしょう。

レニングラード・フィルの来日公演に際してソ連からのジェット機乗り入れの許可を得るために日本の興行師が交渉すべき相手が、日本政府でなくアメリカ駐留軍司令官であったことは戦後の対米従属路線を明瞭に示す現代史の一頁といえるでしょうか。

チャイコフスキーコンクールやショパンコンクールの舞台裏も政治的な匂いが強く立ち込めていました。開催国はそれぞれ自国の演奏家を勝たせるために様々な狡知を働かせました。そこでは音楽が世界の平和構築に貢献するよりもむしろ国威発揚に利用され、コンクールは政治的な機能をも果たしたのです。
もっとも現実には、チャイコフスキーコンクールでアメリカのヴァン・クライバーンが勝ったりするなど、想定外の結果が生じることもありました。審査員のなかにも音楽家としての矜持を放棄することなく「国家の威信よりも藝術を重視する人」が存在したのです。

中川は史実を淡々と積み重ねていく形で、冷戦時代の音楽家たちの動きを追っていますが、なかで旧東ドイツのクルト・マズアに対しては「日和見主義者」と確言しているのが目を引きます。彼のCDは何枚か持っているけれど、経歴をよく知らなかったのでいささか驚きました。
音楽にも国境があった冷戦時代の音楽家たちの苦闘をとおして、政治と音楽の一筋縄でいかない関係を浮かびあがらせる。記述がやや平板な印象なきにしもあらずですが、主題の面白さで読ませてくれる本です。

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