最も日本的な精神性としての〜『IKIGAI』
◆茂木健一郎著『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』(恩蔵絢子訳)
出版社:新潮社
発売時期:2018年5月
茂木健一郎が英語で書いたテクストを恩蔵絢子が和訳した本です。原著はヨーロッパでベストセラーになっているらしい。なるほど一読して納得しました。従来のオリエンタリズムの枠組にきっちりハマるような内容ですから。〈生きがい〉を「最も日本的な精神性」と言い切るところは意表をついていますが、それを語るネタが旧態依然としているのです。寿司、築地のマグロ仲買人、茶道、雅楽、聖徳太子の「和」の精神、伊勢神宮、相撲、コミック・マーケット、和菓子……。西洋人が飛びつくはずです。
本書で「最も日本的な精神性」とされている〈生きがい〉とは何でしょうか。
冒頭で五本柱を掲げています。
柱1:小さく始めること
柱2:自分からの解放
柱3:調和と持続可能性
柱4:小さな喜び
柱5:〈今ここ〉にいること
そのうえで、以下のように解説しています。
序盤で提示される〈生きがい〉概念はその後に様々に変奏されていくのですが、〈こだわり〉として展開される議論はとりわけ印象深い。それは「〈生きがい〉の中心的要素を構成する」ものとして詳述されます。
〈こだわり〉の具体的な実践例としては高級フルーツを扱っている千疋屋や陶芸などが例示されています。
さらに「フロー」なる概念が引用されます。アメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイによって提唱された概念です。それは「人がある活動に夢中になって、その他のものが何も気にかからなくなる状態」のこと。そのとき「仕事は、何か他の目的を達成するための手段として、仕方なく耐え忍ぶものでなく、それ自体が目的となる」らしい。
茂木の流暢な話芸につい引っ張られてしまいそうになるけれど、平均月収の少ないアニメーターの世界について「フロー」の文脈で論じるくだりにははっきり違和感を拭えなくなりました。仕事は生活のためのものでなくそれ自体が目的となるというのですが、社会の現実に目を向けるならば、そのような活動のあり方を無批判に称揚するのは、劣悪な労働環境を是認することになりかねません。実際、日本のアニメ業界の状況は、その後も改善されることなく、国連人権理事会が「搾取されやすい環境がつくり出されている」との報告書をまとめたことは日本でも報道されました。
生きがいを持ち、こだわりに生きる職人たちは、なるほど現代の資本主義下でも本領を発揮していますが、万人がそのような状態で生きていけるわけではありません。日々生きていくだけで手一杯という人は少なくないのです。
凡庸な人々であっても、安心してフローの領域に足を踏み入れるためには、個人の心構えだけでは無理で、社会的な条件整備が必要でしょう。それは脱資本主義的な社会のはずです。しかし茂木がそういう類の世直し的な言葉を本書で口にすることはありません。
また〈生きがい〉について日本特有の精神性という文脈で語る言説は一歩間違えると、夜郎自大的な「日本スゴイ!」合唱の輪の中に回収されてしまう危惧も拭えません。本書を一つの自己啓発書として割り切って読むという態度もありうるでしょうが、手放しで推奨する気にはなれない本です。