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「使えるか、使えないか」つねに判断されるわたしたち

10日後のわたしは「使える、使えない」どちらの判断をされるのだろう

『コンビニ人間』を読んでいて、どきっとした部分があった。

自分が使えるか使えないか考えてしまう。使える道具になりたくて働いているのかもしれない。

普段あまり意識することはないけど、「使えるか使えないか」の判断に日々さらされながら生きてるなと思った。

ありがたいことに新しいお仕事の話が舞い込んできた。
こんなわたしに「手伝ってくれませんか」と言ってくださったので、YES orはい精神で「ぜひ、やらせてください」と返事をした。

やることや締切日を確認しながら「ああわたしは今、使えるか使えないか判断されているんだ」と強烈に感じた。

友だちじゃないんだから使えるやつか判断するのは当たり前だ、それに対価だってもらうんだから仕事ってそうゆうものだ。

だけど、めちゃくちゃ怖くなった。

ここで「使えない」と判断されたら、たぶんこの先交わることはないし、以前のように声なんてかけられないし、相手の中で「使えないやつ」のレッテルを貼られて生きていくんだろうなと思ってしまった。

声をかけてくれたのがあこがれの人だから、なおさら感じてしまう。

気楽に今の自分にできる最大限をやろうと思うと同時に、ジャッチされるんだと思うと動きが止まってしまいそうになる。

推しもこんな気持ちになったりしたんだろうか?いや、あの人はそんなこと思わなさそうだけどな。



(新しい仕事の過去ログを見てたら、そんな気負わなくてもいい気がしてきた。とりあえず、目の前のあることを全力でやってきます。)





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