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まだ子どもでいられると安心した日
小説てさ、起・承・転で終わるよね。「え。で、この主人公はどうなったの、、、?」が分からないっていうイメージがある。
『コンビニ人間』を読んだ。
主人公がコンビニ店員で、読み始めのときは、同じ小売業で働く人間として「鏡みたいな人だ。小売業の人は読んだほうがいい」と思っていた。
だけど、読後の今は、「よくわからん」というのが本音だ。
ただ1つわかることは、前回の『西の魔女が死んだ』とは違い、ビジネス書エッセンスは感じられたなかった。
マーカーもしたけど、共感というより、「あ〜なるほど」ていう今までなかった発想で気に入ったものていう感じ。
『西の魔女が死んだ』と『コンビニ人間』を読んで感じたのは、「そうそう。こうゆうタイプの小説って結末がはっきりしないんだよな」ということ。
それが良いのか悪いのわからないけど、10年ほど携帯小説を楽しんできたわたしとしてはハッピーエンドなのかバットエンドなのかはっきりして欲しいと思う。読後感がはっきりしないし、どこに気持ちを着地させればいいのかわからん。
同じ小説でも携帯小説は結が比較的はっきりしていると思う。そう考えると、携帯小説は学校に似てるなと思う。ほら、よく学校は解があるけど、社会にはないっていうじゃん。まさにそれ。
携帯小説には解があって、『コンビニ人間』のような小説に解はない。千差万別の解き方があって解がある。まだそこが楽しめないわたしは子どもなのだと安心した。
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