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日記帳

 見てはいけない。読んではいけない。入ってはいけない。決して。絶対に。そう言われるほどに、対象への興味は高まる。

 ここは弟の部屋。本人からは決して入るなと言われている、弟の部屋。思春期真っ盛りの、男子高校生の部屋だ。その思春期真っ盛りの弟の、おそらくは思春期真っ盛りの日常が描かれた「秘伝の書」が、今まさに目の前に置いてある。

 そう、その秘伝の書とは、日記帳のことだ。常日頃から、弟が日記を書いているのは知っていた。ただ、日記を書いていると自分で言っておきながら、彼は「絶対に読むなよ」と念を押すかの如く私に言い続けていた。

 それはつまり、気づかれないように、こっそり読んでくれ、というサインなんだろう?へへ、分かってる、分かってる。お姉ちゃんには、お前の気持ちがよく分かっているよ。こんなふうに、机の上の、それもど真ん中に置いてあるなんて。つまり、読めと言うことなのだろう?仕方ない、だったら読むしかないよなあ、弟よ。

 ではさっそく、青い春の1ページ目からめくっていくとしよう。

〇月×日

 「今日から日記を書き始めることにした。何一つとして続かなかった僕の、ささやかな挑戦。この試みは、自分以外の誰の人生を変えることも無い。下手をすれば、僕の人生にもなんら変化を及ぼさない。

 それでもなにかひとつ、毎日続けることに意味があると思う。まあ、初日なので、なにも書くことが思い浮かばないのだけど。さあ、日記を書くぞと宣言したところで、明日からがんばるとしよう」

 ああ、分かるわ、弟よ。何事も初めは要領が分からないものよね。何を書いてもいいと言われても、やすやすと書きたいことなんて出てこないものよね。じゃあ、次のページへ行こうかしら。

〇月△日

 「何を書こうか迷っていたのだけど、ここには思っていることを洗いざらい書いてしまおうかと思う。どうせ誰にも読まれやしないのだ。人には言えないことを、好き勝手書いてしまおうと思う。

 実は僕は、お姉ちゃんのことが好きだ。小さい頃から、大好きだ。こういうと、シスターコンプレックスなどと馬鹿にされるかもしれない。そんなんじゃない。お姉ちゃんのことを、ひとりの女性として好きなのだ。

 はあ、誰に見られるわけでもない日記と言えど、本音を吐露するのは勇気がいるものだ。ちょっとずつ、自分の想いを書き連ねるとしよう。今日はここまで」

 おいおい、青い春の2ページ目から、ショッキングすぎる展開じゃないか。いやいや、これはきっとなにかの間違いだ。あ、手の込んだいたずらかもしれない。私が読むことを予期しておいて、ドッキリを仕込んだつもりなのだろう。ふふふ、簡単には引っかからないぞ、弟よ。さあ、ここからどう展開してくるのかな?

〇月◇日

 「今日はお姉ちゃんのことを好きになった理由について書きたい。僕がお姉ちゃん、いや、彼女のことを好きになったのは、小学生の頃。学校でいじめられていた時、彼女が優しく話を聞いてくれたおかげで、僕は希望を持って生きることができた。

 彼女は、どんなことでも聞いてくれた。優しく、肯定的に、決して僕を責めることなく、真冬にくるまる毛布みたいに、僕のことを羽毛みたいな温もりで包んでくれたんだ。

 気付けばもう、彼女に包まれて、動けなくなってしまった。僕はもう、この温もりから、決して逃れることはできない。暁を覚えることのない、春の眠りのように」

 胸が締め付けられるようだった。ここに書いてある弟の言葉からは、嘘っぽさが感じられない。どうやら本音のようだ。そういえば、弟はよくいじめられてたなあ。私もいじめられてたから、親身になって話を聞いてあげられたんだっけ。こんなふうに思っていてくれたなんて、少し嬉しい。私は、あの子にとっての生きる希望になっていたのだなあ。待てよ、感心している場合じゃない。とにかく、次だ、次。

〇月☆日

 「本音を言葉にすると、すっきりする。日記、意外と続くかもしれないぞ。なんだかこの日記帳にも愛着がわいてきた。

 恋愛相談をした相手とは、ぐっと距離が縮まると言うけれど、それと似たようなものかもしれない。これからもたくさん、お姉ちゃんのことを書きたいと思う」

 

 これから先のページも、私のことについていろいろと書かれているというのか。人の恋愛話を読むのは心が弾むが、それが弟のものとなると、手放しで楽しむわけにはいかない。その好意が、私に向けられているというのなら、なおさらである。

〇月%日

 「今日はお姉ちゃんの好きなところについて書きたい。まず、目が大きい。見た目から褒めると、なんとなく罪深い気がするが、恋愛において見た目は大事だと思う」

〇月&日

 「お姉ちゃんの好きなところ。胸が大きい。おしりのラインがキレイ」

〇月#日

 「お姉ちゃんのかわいいところ。朝ご飯の時に、よく口元にご飯粒を付けていることと、鳥のさえずりみたいな、いってらっしゃいの声」

 見た目やら仕草やらに関しての、私への評価が数日間にわたって続く。読んでいて少し気持ち悪くなってしまった。他人ののろけ話みたいなのは、しつこいとイライラしてくるものだ。というか、内面的な部分の評価が皆無に近い。なんだかんだで見た目かよ。失望したぞ、弟よ。まあ、褒められている本人としては、まんざらでもないのだけれど。そこから幾ページもめくって、やっと別な趣向の話になってきた。

〇月◇◇日

 「最近、日記にお姉ちゃんのことを書こうと思っても、なかなか書き進められない。他のくだらない話なら、すらすらと書けるのに。

 最近読んだ本とか、好きな星座の話とか、テストで高得点をとれたとか、僕にとっては本質に触れるような話ではないけれど、そういったことを書くのは容易い。

 本当はお姉ちゃんのことについて書きたいのに。あ、まただ。お姉ちゃんと書こうとするだけで、次の文章が出てこなくなる」

 さすがに私のことばかり書いていたから、もう書くことがないのではないだろうか。そんなとこだろう。なんて、平和な予想を立てていた。次のページを読むまでは。

〇月☆☆日

 「どうやらおかしなことになってきた。おねいちゃんのことを書こうとすると、僕の意志に反するように、ペン先が不可解な動きをしてしまう。指が言うことを聞かない。

 おねうぇさん、おねねちゃん、おねぬせん、やっぱりおかしい。今、おね」

 いったい、どうしたというのだ。中途半端な部分で、その日の日記が終わってしまっている。寝落ちでもしたのか。最後の「ね」という文字から伸びる、ミミズのような黒線が不規則な軌道を描いており、次のページに導くかのように続いていた。その先のページの文章を読み、私はぎょっとした。

 「私だって、あなたのことが好きなの。少しはこっちの身にもなってよ。いい加減、私のことを見てくれたっていいんじゃないの?お姉ちゃんのことばかりじゃなくってさあ。そんなに視野が狭いと、ろくでもない女に引っかかるわよ」

 「わけが分からないことになった。書いた覚えのない文章が、この日記帳に書かれている。さっきまで上の行は空白だった。それに、まるで別人が書いたかのような筆跡だ」

 「なに当たり前のことを書いてるわけ。私はこの日記帳。自分以外の存在が書いた字なのだから、筆跡が違って当然じゃない。あなたとコミュニケーションがとりたかったから、あなたの身体を乗っ取って、文章を書いているの」

 「そんなことが起こりうるというのだろうか。つまりは、君、すなわちこの日記帳は、僕のお姉ちゃんに対して、嫉妬しているとでもいうのか」

 頭に浮かんだのは、疑問符などではなく、「不可解」。ただ、その三文字だけだった。男の子から恋愛相談をされた女の子が、男の子に対して好意を抱く。そんな、人と人との関係の中では、ごく珍しいわけでもない現象が、「人間」と「日記帳」の間で起こっているというのだろうか。そう信じてもおかしくないほどに、「日記帳」によって書かれたらしいその文章は、やわらかく丸みを帯びた筆跡となっており、あきらかに弟の書いた文字ではないのだと、判別がついた。その後も、交換日記のような文章が続く。

 「君はあくまでも日記帳だ。確かに愛着はあるが、僕が好きなのはお姉ちゃんだ。君は僕の話を受け止めてさえいれば、それでいいんだよ」

 「なにそれ。そんな乱暴な話、あっていいはずないじゃない。私だって、あなたと恋をする権利があるはずよ。誰にも言えないことだって、たくさん共有したじゃないの」

 「いいや、僕が一方的に打ち明けてきただけだ。僕は、君について何も知らない。そもそも、たかが「日記帳」に過ぎない君に、秘められたる想いなどがあるというのかい?」

 「相手が日記帳だからって、ずいぶんと挑発的なことを言ってくれるじゃない。私の秘められたる想い?まさに「これ」よ。秘められたる想いが、秘められたままにできないくらいに膨れ上がってしまったから、こうやって言葉になっているんでしょうが!」

 「そうか。それならば、その好意に真摯に答えるのが我が流儀というものだろう。これからは、君の秘められたる想いを言葉にしてみろよ」

 「あなたが好き。あなたのまっすぐなところが好き。あなたがお姉ちゃんのことを書いているとき、その気持ちが私に向いてくれたなら、どんなに嬉しいことだろうかと、いつも思っていたの。そのうちあなたを独り占めしてみたくなって、ちょこちょこといたずらもしたわ」

 ほうほう、弟が私のことを書こうとしたときに、うまく字が書けなくなったのは、そのせいだったのか。しかしまあ、ずいぶんと人間みたいなことを書いている。本当に日記帳が書いている文章なのだろうか。やはり弟の手の込んだいたずらではないのか。別な人間に書かせて、私に読ませるためにここに置いた。それが、私の中で最も有力な仮説になっていた。

 「僕のまっすぐなところが好き、か。それだけじゃ、君の想いは測りかねるな。では、僕の好きなところをこれからも毎日、書き連ねてみてほしい」

 惚れられた女の子にそんなことをさせるとは、趣味の悪い弟だ。というか、私への想いはどうなった。

 「いいわ。じゃあ、あなたが付き合ってくれるって言うまで、私はあなたの好きなところを書き連ねてみせる」

 次の日の日記からは、彼女、すなわち「日記帳」による、我が弟への愛を述べる文章が続いていた。

〇月〇△日

 「あなたの星が好きなところが好き。ロマンチックで、感性の豊かさを想像させられるわ」

〇月〇×日

 「あなたの詩的なところが好き。愛する人への想いを表現するときの、あなたの言葉が魅力的。私にも、そんな言葉をかけてほしい」

〇月〇◇日

 「あなたの博識なところが好き。きっとその知的さで、人をうんと楽しませてくれるの。付き合ったら、気の利いたサプライズをしてくれそう」

 なんというピュアな日記帳だ。弟の書いていた私への想いとは比べ物にならないほど、その純粋さに心打たれてしまう。思わずその恋の成就を願ってしまうほどだ。

 しばらくの期間、日記帳による愛の告白が続いた。が、ある日、それは終わりを迎えていた。書けるページが尽きていた。つまり、ページ数が無くなっていたのだ。最後のページには、弟と日記帳のやりとりらしきものが記されていた。

 「君の僕に対する気持ちは、伝わった。君の想いは痛いほどわかった。僕も、君のことが好きになったよ」

 「じゃあ付き合ってくれるの?」

 「そうしたいところだが、人間である僕と、日記帳である君が、どうやって付き合うというのだ」

 「そんなの簡単な話じゃないの。あなたの身体を乗っ取ったのと同じようにー」

 がちゃ。玄関から物音が聞こえた。ただいま、という弟の声だ。このタイミングで帰ってくるとは。私は速やかに、かつ、物音立てずに部屋を出て、自分の部屋に戻り、居留守を決め込んだ。

 くそう、最後の文章が読めなかった。いったい、どのような結末になったというのだろうか。弟はその後数日間、ほとんどの時間を家で過ごしていたので、日記の続きを読むことは叶わなかった。そのため数日間は、モヤモヤとした想いのまま、夜も眠れないほどだった。

 何日か後、私が抱いていたモヤモヤは、思わぬ形で晴れることとなった。弟に、お付き合いしている彼女の存在を告白されたのだ。

 「姉貴(弟は、日常的には私のことを姉貴と呼ぶのだ)、実は紹介したい人がいるんだ」

 弟が私の目の前に連れてきたのは、なんてことのない、れっきとした人間の女の子である。

 「お姉さん、初めまして。弟さんとお付き合いさせていただいています」

 いかにも純粋な風で、誠実に弟のことを愛している様子だった。なんだ。やはりあの日記は、弟とこの女の子による、手の込んだいたずらだったのだ。まったく、あれほどのドッキリをしかけるとは、大したカップルだ。実際にあの日記を読むかどうかも分からないというのに。

 「あなたが例のお姉さんですか。ふうん」

 彼女は、若干の敵意を孕んだ(はらんだ)目で、私を見つめてきた。

 「たしかに、目がおっきいですね」 

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