水族館デート後編【短編小説】

 ぬるい。なんていう日だ。冬だというのに、私のお気に入りの、体を刺すような冷たさは、かけらもない。起きた瞬間に、今日はシャキッとしない日だと予測がついてしまう。とはいえ、凍えるような冬の日に、暖かい日がたまたまあると、多くの人が心地よさに歓喜しそうだ。

 カーテンを開けると、予想に反して曇っていた。こんな暖かい日なのだから、てっきり晴れているようなものだと思っていた。気象予報士にはなれないな。なれるとしたら、ニュースに出てくるお天気お姉さんだろうか。いや、私なんかがなれるわけないか。ふふっ。

 この曇り空の中、飲み会で知り合った男の人と、水族館へ行く。年齢は私と同じくらいだろうか。ぱっと見は都会大好きっ子って感じだったけど、彼自身の話によると、意外とひとりでの行動が多く、大人しそうだった。

 飲み会の中で、お出かけスポットの話になった。

 「僕も、動植物がめっちゃ好きで、ひとりで動物園とか楽しんでます」

 彼は私と同じように動植物が好きだそうだ。周りの男の人に、食いつきすぎだろ、と笑われていたが、その言葉に嘘は感じ取れなかった。趣味の合う人との出会いに、思わず、今度水族館でもどうですか、と誘ってみた。

 「え、逆にいいんですか?」


※※※


 約束の場所。遅刻しないようにと、早く家を出たのはいいけど、1時間も前に来るなんて早すぎたかな。時間まで適当にうろうろしよ。そう思っていたら、落ち着きのない挙動の男性が現れた。私の姿は、彼からは見えていないようだ。陰からその挙動を観察して、時間をつぶした。約束の時間まで、あと10分。

 おはよう。今日はよろしくね、というメッセージには、スタンプで返信が来ている。文章のやり取りがめんどくさいのか、それとも喜んでいるのか、どちらなのか不安だったが、彼の様子的には後者のようで安心した。私からのメッセージを何度も読み返しては、にやにやしている。道行く人が彼を見て、くすくす笑っている。私も思わず大笑いしそうだ。

 「わっ!」

 にこにこしながら、いつから待ってたの?と背後から話しかけると、間の抜けたような声を出すものだから、なおさら笑ってしまう。可愛い人。私からのLINEを見て、妄想でもしてた?とおちょくると、彼は赤面して言った。

 「行こうか」

 照れ隠しに明るく言った彼とともに、水族館へ向かった。図星を突かれたような彼の表情は、飲み会のときに抱いた印象とは違う、無邪気さを感じる表情だった。1時間も前から観察していたから、なんだかこの人のこと、よく知っているような気分。


※※※


 水族館の入り口で、彼は早くもその非日常的空間に浸ってしまっている。私が隣にいることなんて、どうやら忘れてしまったようだ。

 幻想的な音楽が流れていて、なんだか海流の中を流されているみたい。わくわくしてきた。

 入り口の通路を過ぎると、目の前一杯に、大きな水槽が広がった。その大きさに圧倒されたけど、こんなたくさんの魚たちを管理する職員の人たちの努力は、並々ならぬものなのだろうな、と思わずにいられなかった。

 隣にいる彼の表情を見てみると、その眼にはもう、私の姿は移っていない様子だった。デートだってこと、忘れてるんじゃないのかしら。

 私より魚に夢中になるなんて。妬いちゃうなあ。なんて言ってみた。

 「焼けてる君で魚を焼いたら美味しいかな?」

 彼があまりにナンセンスなギャグを言うものだから、私は大笑いしてしまった。ちょっと。君、ギャグセンスなさ過ぎだから!と言うと、彼はなぜか感心した様子でいた。

 とはいえ、彼が見惚れるのも分かる。目の前の巨大な水槽を見ると、魚たちの生命力を感じる。この中のみんな、私たちと同じ、ひとつの命。考えただけでも不思議に思う。

 彼はどう思っているのだろう。彼が何も言わなくても分かる気がする。魚たちを見つめる、そのまなざしを見れば。


※※※


 海底のように、うす暗い水族館の中を進む。しばらく歩くと、クラゲの水槽に目を奪われてしまった。

 クラゲって、海を漂っているだけに見えるけど、実はちゃんと泳いでいる。人の人生もクラゲみたいなものなんじゃないかと思う。

 クラゲに目を奪われながら、クラゲを見るたびに思うことを口にした。別に話す気はなかったが、思わず口にしていたのだ。

 私たち人間も、運命という大海の中で、漂っているだけのように感じてしまうときがある。だけど、実は自分たちの意志で、行くべき道を進んでいる。

 誰だってそうだと思う。ただただ流れて生きている人なんていやしない。誰しもが、逃れられない選択の連続の中で生きている。

 気が付いたときには、もう遅かった。私はついつい、自分の中の哲学を語ってしまった。彼はどんな目で私を見ているだろうか?

 つい話しちゃった。クラゲの水槽の前で、こんな話をする女の子、珍しいと思わない?と、照れ隠しをするかのように問いかけつつ、彼の顔色をうかがった。

 さぞ変わったものを見るような目で見ているに違いない。そう思い込んでいた私の予想は、鮮やかに裏切られた。


※※※


 出口を抜けると、一気に現実に放り出された気分。私たち人間は、陸の海に放流、ってか。大人しく、元居た場所に帰れってことね。

 今回の水族館デートで最も見入ってしまったのは、ダイオウグソクムシだった。まるでナウシカの王蟲みたい。あれがダンゴムシの遠い親戚なのだとしたら、人類の滅んだあと、地上を制するのはダンゴムシかもしれない。

 こういう時に普通の人だったら、イルカのショーが楽しかった、なんて言うに違いない。イルカは確かにすごかったし、感動したけれど、それでも最も印象に残ったのはダイオウグソクムシだった。今夜は夢にダイオウグソクムシが出てくるに違いない。

 ダイオウグソクムシが一番印象に残ったな。今日の感想を簡潔に述べると、彼は、はっとした表情を浮かべて私を見た。

 「ダイオウグソクムシが印象に残っただなんて、君も変わってるね」

 彼が自分のことを棚に上げて言うものだから、君にとっても印象に残ったでしょ?と言い返してやった。

 「なんで分かったの?」

 そりゃあ、ダイオウグソクムシの前で微動だにしないんだもん。きっとこういうの好きなんだろうな、って思っただけ。君って、分かりやすいタイプなんだね。

 けらけら笑いながら言った。だけど、その分かりやすさが可愛いんだけどな。君が本当に印象に残ったもの、もしかしたら私、分かってしまったかも。私の口からはとても言えないけど。


※※※


 彼がバス停で見送ってくれるという。昼過ぎまで空を覆っていた雲が、散り散りになっている。夕暮れ時。寒い夜が来る。私の大好きな、冷たい夜。世界が終るかのような、真っ赤な空。天気は、晴れ。星々は宴の準備を始めている。

 バスが来る前に、渡してしまおう。こんな本渡したら、気を重たくするだろうか、と悩んでいた。君と一日を過ごすまでは。

 「君、やっぱり哲学が好きなんだね」

 やっぱり、と言いながら彼が受け取ったのは、エーリッヒ・フロム著「愛するということ」。私が大好きな本だ。興味がないような表情をされたらどうしようと思っていたが、その心配は無用だった。

 「はは、読めってことね」

 彼は嬉しそうな顔をしていた。偉大な哲学者たちは、人が幸せに生きるためにはどうすればいいのか、悩んで悩んで悩みまくった。そんな彼らの築いた現代世界では、既に幸福の在り方が科学的に解明されてきている。

 それでも私は、悩みに悩んで、幸せについて考えてきた人たちの言葉を欲してしまう。

 「君って、正直者なんだ」

 彼は私の話を聞くと、にこにこしながら言った。私の何を見てそう思ったのかは分からないけど、なんだか照れてしまった。この人の前では、うっかり大切な思いを打ち明けてしまう。

 「次に会う時までに、読んでおくよ」

 バスに乗り込む私に、彼は別れの言葉代わりに言い放った。

 バスに乗り込んで、遠くから手を振る君を見つめる。車窓越しの私の顔は、君には見えないだろう。それでいい。バスの中は、日差しを防ぐためのカーテンで閉め切られている。夕日は差し込んでいないのに、頬が真っ赤に染まってしまっている。

 一日のハイライトが始まる。クラゲの水槽の前で、私の哲学を聞いた時の、彼の表情。

 ダイオウグソクムシが一番印象に残った、という、嘘。私も彼も、嘘つきだ。正直者だなんて言っていたけど。

 この日いちばんに印象に残ったのは、クラゲの水槽の前で、私に見惚れていた彼の表情。彼がいちばんに印象に残ったのは、クラゲの水槽の前で、彼に見せた表情。

 正直者なのか、嘘つきなのか。もう、どうでもよくなっていて、私は思い出し笑いをこらえながら、顔を赤く染めて、バスに揺られていった。

 

 

 



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