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咆哮

 男は、オオカミ男。
 満月の夜は、オオカミになる。自分の意識とは関係なく。場所も状況も関係なく。
 男はそんな自分の特性を厄介に思っていた。25年間ほど生きてきた、これまでの人生においては。
 小さい頃はお泊り会の夜が満月の日だという理由でひとり欠席せざるをえなかったし、月が満ちるたびに夜ご飯には苦労する。このあいだなんて、せっかく女性に誘われたにも関わらず、「その日」だったという理由で、断らざるを得なかった。
「なぜ、オオカミになんてなってしまうのだ」
 オオカミ男。きっとオオカミになれることをうらやましがる者もいることだろう。でも、オオカミになるから、なんだっていうんだ?かっこいい獣になれる?それで?誰が得をするというのだ?もの珍しい、アニマルサーカスにでも出演しろと?ああ、それは確かにビジネスチャンスだ。きっと大儲けできるだろう。
 男は自嘲気味に思う。頻繁に、思う。そして、悩む。終いには、涙を流している。
「こんな得体の知れない化け物など、誰が愛してくれるというのだ」
 きっと誰にも愛されないであろう。この先もずっと。
 孤独な将来を憂いては、一晩中泣き明かしてばかりであった。
「大丈夫だよ、あなたは優しい」
 彼の心を、暗い深淵から引き上げるのは、職場で出会った同僚だった。彼女は彼の正体を知らない。彼が頻繁に目を腫らして出社するものだから、心配しているのだ。
「大丈夫だよ、あなたは優しい」
 彼にとってその言葉は、自分を人間として認めてもらえているという、証のように思える言葉であった。
 やがて彼は、彼女に惹かれた。強く惹かれた。自分を人として見てくれる、彼女の温かな心に。ただそれだけに。
 花束を贈ろう。想いを伝えよう。そう決めてからは早かった。
 とある仕事終わり。アフターファイブ。彼は彼女を呼び出す。
「珍しいね」
 突然呼び出してきた彼を、不思議がる彼女。
「ご、ごめんね」
 不思議がる彼女に、緊張を隠せない彼。
「ねえ、動物の中で何が好き?」
「え?」
 彼は、彼女のその時の問いが、彼の緊張をほぐそうとしての質問であることを、知る由もない。
「うーん、猫、かなあ。可愛いし」
 君みたいに、なんて、言えるほど達者な口は持ち合わせていなかった。
「猫、かあ。妥当だね。私はさ、オオカミが好きなんだ」
「え?」どきりとしないはずは無かった。
「オオカミってさ、かっこいいじゃん?孤独なイメージがあるけど、実は家族想いだし。絆を大切にするし」
「え?そ、そうかなあ?」
「うん。そうなんだよ。知らなかった?」
「知らなかったなあ」自分がオオカミになるくせに、オオカミの生態など、まったく興味は無かった。
「じゃあさ、僕がオオカミ男だって言ったら、どう思う?」
 僕は何を質問しているのだ?自分でも質問の意図が分からない。
「え?突拍子もない質問だね」
「か、仮に、の話だよ?もちろんだけど」
「そうだなあ、オオカミ男だったら、かっこいいかもしれないけどー」
 けどー?
「君がオオカミ男でも、私は君の優しいところが好きだよ」
 優しいところが、好き。
 分かっている、告白ではない。分かっている、ニュアンスが違う。分かっている、分かっているけどー
 彼は心の底から、何か震えるものが込み上げてきた。それはもう抑えられることも無く、どくどくと彼の心身を脈打たせた。
「え、なに?」
 今日は満月の日だった。舞い上がった彼は、すっかりと忘れてしまっていた。
 彼女の言葉に打ち震えたのも相まって、彼は情動的になっていた。今にも走り出しそうーいや、走り出していた。想いと同時に渡そうとしていた花束を、それだけをつっけんどんに彼女に突き渡して。
 そして、走り出した。走る間に、どんどんと体がオオカミに変貌していく。
 夕日が沈む、星が昇る。それにつれて、体毛が濃ゆくなる。4足歩行に近づいていく。走る、走る。獣のように。以前は人であったかのように。
 山へ向かって、ひたすらに走った。まるでオオカミみたく。まるで獣みたく。牙が生えていく。耳が生えていく。目つきが鋭くなっていく。感覚が、研ぎ澄まされていく。
 山の頂上に着いた。満ちた月。星を散りばめた空。彼の身体はすっかりオオカミと化していた。
 そこで初めて思った。
「生きてきてよかった」
 この上ない感動に打ちひしがれ、その思いがあふれんばかりになったころ、彼は、咆哮した。満月に向かって。
「どこかでオオカミが鳴いている」
 美しい遠吠え。しかしこの地域に、オオカミなんて生息していただろうか?
 彼女は不思議に思ったが、つい先ほど自分を置いて走り出した彼を思い出して、ふふっとほほ笑んだ。
「まるでオオカミみたいな人」
 遠吠えはいつまでも響いた。遠く、遠くの、夜空の月まで。

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