【短編小説】「もう、お兄ちゃんって呼ばないから」

「航くんのこと、もう、お兄ちゃんって呼ばないから」
「……は?」

 俺、西野航(にしの・わたる)は最愛の義妹——西野凪(にしの・なぎ)から突きつけられた言葉に困惑した。

 凪は10年前、父の再婚によって家族になった二つ年下の女の子。
 血のつながりは無いが幼少から生活を共にしており、目の中に入れても痛くないほどの……俺にとって大切な義妹。

 そんな彼女の様子がここ最近おかしかったため、「ケーキでも食べないか?」とリビングに誘い込んだところ――
 告げられたのは「もうお兄ちゃんとは呼ばない」という衝撃的な一言だった。

「な、ななな、なんでだよ……?」

 小さい頃からお兄ちゃん、お兄ちゃんと懐いてくれた凪。
 中学を卒業し、高校生になってもなお、兄として慕ってくれたはずの義妹。
 それが、どうして――

「どうしてなんだ、凪?」
「……」
「こないだの16歳の誕生日にだって、たくさん『お兄ちゃん、大好き!』って言ってくれたのに……」
「じゅ、16歳になったから! ……16歳になったからだよ」

 そう言って凪は、頬を朱に染めてぷいっと顔を逸らした。

(ああ、そうか。もうそういう年齢なのか)

 お兄ちゃん、完全に理解しました。

「凪ももう、お年頃ってことか」

 16歳といえば思春期真っただ中。そろそろ反抗期が来てもおかしくない。
 今までのお兄ちゃん呼びが恥ずかしくなってきた……そんなふうに考えるのは無理もないことだ。

「大丈夫だ、凪。お兄ちゃん、凪にいくら冷たく当たられても、全部受け止めるからな。なんせ凪は、俺の大切な妹だか――」

 俺の言葉をさえぎるように、バンッと机をたたく凪。

「そういうのじゃないから!」

 彼女は顔を真っ赤にして俺をにらみつけた。

「あと、その『俺の妹だから』っていうのもやめにしてほしい」
「なっ……!?」

 えっ、そこまで言う!?
 それって、『あなたがお兄ちゃんなのが恥ずかしい』『生理的に無理』とか、そういうレベル……!?
 覚悟したつもりだったが、これが反抗期ってやつなのか。

「……俺も嫌われたものだな」
「そういうのでもないから……」

 言うや否や、凪はなぜかソファで隣り合って座る俺の腕を抱きしめた。

「ねえ、航くん。私って、そんなに魅力ないかなあ……?」

 凪はそう言うと、俺より頭一つ低い位置から泣きそうな目で俺を見つめてきた。
 こ、この恋する乙女のような表情は、まさか……

(好きな男でもできたのか!?)

 受け入れがたい展開に衝撃を受けつつ、続く凪の言葉に耳を傾ける。

「運動してスタイルだって整えてるし、お洒落だってがんばってるし……。し、下着だって、いつ見られても大丈夫なように可愛いの着けてるのに……」

 瞳を潤ませながらそう語った凪は、今にも泣きだしそうだ。しかし――

(泣きたいのはお兄ちゃんの方だよ……っ!!)

 凪がそこまでするってことは、それはもう完全に意中の相手がいるということで。
 下着にまで意識を巡らせるということは、そいつとの未来まで考えているということで……

(ダメだ、発狂しそう)

 最愛の義妹が男に抱かれる。それを考えるだけで叫び出しそうになった。が、

(……いや、兄としてそれはダメだ)

 最愛の義妹が兄を頼ってるってのに、嫉妬に狂ってどうする!
 俺は意を決し、彼女の潤んだ瞳をまっすぐに見つめた。

「凪。よく聞きなさい」
「……うん」
「俺は凪が毎日、トレーニングしているのを見ている。ファッション雑誌を見て勉強しているのも、お洒落のために頑張ってバイト代を貯めてるのも知っている。洗濯の際に見てしまったが、下着だってすごくかわいいのを選んでると思う」

 俺が一旦そこまで言うと、凪はかあああっと顔を赤らめて、下を向いた。
 それでも臆するわけにはいかない。

「そんなふうに努力している凪が、魅力的じゃないわけないだろ!?」
「航くん……」
「相手がどんな男だって、そんな凪のことを好きになるに決まってるだろ!」
「航くん……!」
「自分のために頑張ってくれるって知ったら、男はみんなイチコロさ」
「航くん……!! じゃ、じゃあ、航くんは??」
「あったり前だろ!? 世界で一番、大大大好きに決まってるじゃないか! 妹として!!」
「ずーん……」

 俺が声を大にして言い切ると、凪は唐突に表情を暗くしてうなだれた。
 あれ? 励ましたつもりだったんだが……。

「なんで気付いてくれないの……?」

 凪はそう言うと、肩を震わせて泣き出してしまった。

「妹としてじゃなくて……一人の女としてどうなのって聞いてるのに……」
「え?」
「私は、お兄ちゃんとしてじゃなくて、一人の男の人として航くんのことが好きなの……」

 凪が、俺のことを男として好き……?

「ちっちゃい頃からずっとそうだった。顔合わせしたあの日からずっと」

 記憶をさかのぼると、今と同じように不安そうにしている凪の顔が浮かんだ。

「これからのことで不安だった私に、『困ったことは何でも言え。お兄ちゃんが全部なんとかする!』って言ってくれた」

 そうだ、それを見た俺は、ついかっこつけたことを言ってしまったのだった。

「私はそれに甘えて頼ってばっかりで。でも、航くんは本当に何とかしてくれた」
「……」

 確かに、一度かっこつけたがために、無理をしてでも「お兄ちゃん」を演じ続けたんだよなあ。
 今や元からそうだったみたいになってるけど。

「そんな航くんのことを私は好きになって。『大きくなったらお兄ちゃんと結婚する!』って言ったけど、本気にはしてもらえなかった」

 まあ、小さかったしなあ。

「でも私、あきらめきれなくて。運動も勉強も、お洒落だって一生懸命がんばった。それでも航くんは私のこと、妹としてしか見てくれなかった。だから「お兄ちゃん」って呼ぶのもやめることにしたの……一人の女性として見てもらうために」

 凪は俺の目をまっすぐに見つめる。その瞳には覚悟の色が浮かんでいた。

「私、もう16歳だよ? あと2年でお父さんとお母さんに黙って結婚できる年齢だよ? 航くん。私……どうかな」
「……」

 数十秒の逡巡を経て、俺は今の想いをそのまま告げることにした。

「凪、俺は今、すごく嬉しいよ」

 その言葉に嘘は無い。
 一人の女の子が自分のために莫大な時間を捧げてくれた。
 それで嬉しくない男がどこにいる?

「でもな。今すぐには凪の気持ちに答えることはできない」
「……」
「なんせ俺は、兄として義妹を異性として意識しないように生きてきた」

 そうしなければ凪に安心して過ごしてもらうことはできないと思っていたから。

「だから、回答は待って欲しい」

 そう伝えると、凪の瞳に諦めの色が浮かぶが、それを否定するように言葉を紡ぐ。

「けど、これだけは言わせてくれ」
「?」
「凪が義妹じゃなくったって、俺は凪に笑っていて欲しいし、幸せになって欲しい」

 それだけは絶対に伝えておきたい言葉だった。

「……誠実だね」
「意気地なしって言ってくれてもいいんだぞ?」
「ううん。……やっぱり、好き」

 そう言って凪は涙を浮かべながらも微笑んだ。かと思えば――

「うおっ」

 勢いよく俺の身体に飛びつき、抱きしめてきた。

「これくらいは許して?」
「……ああ」

 俺の胸に顔をうずめる凪の背中に手を回し、受け止める。
 それから、彼女の華奢な背中を優しく撫でる。

「えへへ。こうして撫でられるの、好き」
「これくらい、いつだってやってやるさ」
「……ありがと」

 語り合う前よりも強まった絆を確かめるようにしばらく抱き合っていると。

「ただいまー」

 どうやら母が帰ってきたらしい。
 俺はぴくりと肩を跳ねさせて、見られる気恥ずかしさから抱擁を解こうとしたが、凪がそれを許さず――

「あら、仲直りできたのね?」

 リビングに来た母にその光景を見られてしまった。

「ああ、まあな」

 苦笑しながら頬を掻く俺に対して、凪は。

「仲直りどころじゃないよ、お母さん。私たち、前よりも仲良くなったから」

 母の方ににっこりと微笑んだ。直後にまた俺の顔を見上げると……

「私、航くんのこと大好きだから」

 そんなふうに小悪魔的な笑みを浮かべたのであった。




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