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新しい宗教

 岸壁にたたずむひとりの女。崖下を見つめ、今にも荒れ狂う海面にその身を投げ込もうとしている。
 「生きるのが苦しいのかい?」
 いつのまにか背後から忍び寄った男が、女に問うた。女は何を言うこともなく、こくりと頷いた。
 「それでは一度、その命を絶つといい。ただし、その代わり、新しく生まれ変わることを約束してくれ」
 男はそう言って、女についてくるように要求した。女は、男の発言の意味が理解できなかったが、「どうせ死ぬのだからどうなってもかまわない」という投げやりな気持ちでついていくのだった。

 女が男と出会ってから数か月後。 
 「あなたも一度、死んでみると良い」
 そんなキャッチフレーズが、ひそやかに人々の間から聞こえるようになっていた。街中でポケットティッシュを配る青年が、優し気な表情でポケットティッシュを配っている。ポケットティッシュの広告に、先のフレーズと地図らしきものが大々的にプリントされている。
 地図が指し示す場所。そこでは、数か月前に岸壁にたたずんでいた女が、奇跡の存在として祀り上げられていた。

 女は、男の手によって、信仰の対象へと仕立てられていた。「一度命を絶つ」ことで、神聖なる存在へと変貌を遂げた、という設定だった。つまるところ、一度死んだつもりで、人生投げやりになってしまえば、大きな好転が訪れるということを暗に示した設定であった。ただ、生まれ変わったかのような人生の好転を得るためには、普通に死んでしまっては駄目で、団体への入信が必要であった。更には特別な施しを受けるために、信者たちはそれこそ人生を投げやりにでもしなければ払えないような額の金額を、お布施や会費といった形で支払う必要に迫られた。そうすることで初めて、信者たちは生まれ変わったかのような好転を得ることができるのであった。まあ、それは洗脳によって好転したかのように思わせられていただけなのだったけれど。

 更に数か月後、宗教団体の活動が活発化した。彼らは熱心な信者から金銭を搾取しては、更なる活動資金としていた。多額の借金を背負う者もあり、団体の存在は、国からも危険視されるような規模となっていた。団体の動向に気を付けるよう、注意喚起がなされたが、それでも団体への興味を示す人は後を絶たず、団体は拡大の一途をたどった。

 拡大する新興宗教団体へ対抗する叫び声は、人民の中からあがった。一部の人々が、表立って激しい活動をすることができない国家の代わりにと言わんばかりに、対抗組織を発足し、過激な行動に出た。彼らは新興宗教団体へ幾度となく攻撃を仕掛け、そこには暴力的争いがあり、ときには重傷者が出るほどの血なまぐさい攻防に発展することもあった。その攻防に、国家が表立って割り込むことはできなかった。

 新興宗教団体と対抗組織の戦いは、数年にわたって繰り広げられたが、それにもついに終わりが来た。対抗組織が新興宗教団体の本部を制圧、信仰の対象とされていた岸壁の女、首謀者の男、ともに対抗組織に捕まった挙句、警察に突き出され、逮捕に至った。トップを失った新興宗教団体は解散、巷をにぎわせ続けた騒動は、やっとのことで幕引き。首謀者の男の動機としては、簡単にまとめると、「私利私欲を肥やしたかった」というありきたりなものに落ち着いた。そこにはある種、美しいほど純粋な欲望のみがあった。その後、刑務所にて服役中である。
 対して女はと言うと、信仰のキャッチフレーズの通り、「一度、死んだつもりになっていて、すべてをなりゆきに任せていた」のだという。ただ、「自分が信仰の対象になることで、形はどうであれ、一部の人の心が救われたという事実に誇りを感じている」「それでも多くの人たちの人生を破綻させてしまった罪は、法で裁かれる以上のものがある」「これからは贖罪も兼ねてちゃんと生きようと思う」と、言葉を述べていた。法的に裁かれ、出所したその後は、体験を元にした本の執筆やセミナー活動に専念し、新興宗教や洗脳の被害撲滅に尽力している。

 新興宗教団体を解散させた対抗組織は、人々の大きな称賛を受けた。戦いのエピソードは瞬く間に広まり、多くの人々の間で認知され、その過激な活動はこれまで以上に熱を帯びる。熱心な信者が増え、活動資金と称して人々から莫大な金銭を集め、暴力的な活動は日を増すごとに激化していった。
 国は組織を危険視しはじめた。ある市民の人々の間では、組織の鎮静化のための計画が話し合われているのだという。

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