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暴力的やさしさ

 吾輩は魚である。名前はまだない。多分、今後も名前など付かないと思う。
 成体になるまでは、人間が「熱帯」と呼ぶ地域の川の中で過ごしていた。卵からかえり、栄養豊富な食事と美しい環境に支えられ、健康的に育った。
 このまま淡水魚として静かに暮らしていくのだろうと思っていた、ある日。人間の捕獲者に捕まった。一緒に暮らしていた他の魚たちのいくらかは食料にされ、いくらかは水族館と呼ばれる施設へ、そして吾輩を含む何匹かは個人の観賞用としてペットショップに運ばれていった。

 そして今に至る。今とは、人間の少女に見つめられている、この状況のことを指す。彼女は、水槽にくっつきそうなほど顔を近づけている。
「お母さん、このお魚さん飼いたい」
 少女は甘ったれた声で母親にねだる。このお魚さんとは、吾輩のことだろうか。少女の願いを聞いた母親は、腕を組んでしばらくの間、うーん、うーんと唸りながら、頭を左右、交互に傾けていた。
「ちゃんと面倒を見るというのなら、飼ってあげてもいいわよ」
 母親の言葉に、少女は「やったー」と両手を高くあげ、飛び跳ねた。
 こうして吾輩は、この親子の家で飼われることになった。

 母親と少女の元で過ごして数日が経つ。彼女らはよく吾輩の面倒を見てくれている。人間の家の中の水槽ではあったが、彼女らのお陰で、故郷の熱帯とさほど過ごしやすさに変化はない。むしろ過ごしやすいくらいだった。
 時折、母親の夫と思われる男が吾輩を眺めていることもあった。
「お前は何もしなくてもご飯が食べられていいなあ。おまけに可愛がってもらえるし」
 このようにブツブツと話しかけられる。まったく、何を言っているのだ。こちらははるか遠くの生まれ故郷でいきなり人間に捕獲され、明日にでも命を失うのではないかという恐怖の中で、命からがらここまで連れて来られたのだ。対価としてこれだけ甘やかされてもいいではないか。
「まあ、お前にも大変なことくらいあるよなあ。お互い、がんばろうな」
 さっきの発言とはまるで反対のことを言っている。吾輩に話しかけるというよりは、ひとりごとのようであった。
 夫は母と娘にあまり干渉しない様子であった。母はそのことを少し気にかけていたが、夫からすると、干渉しないというのも優しさのつもりらしい。

 とある冬の日。少女が水槽にやかんで沸かした熱湯を入れようとしている。水槽の温度を上げるつもりらしい。
「君も寒いよね。温かくしてあげなくちゃね」
 ちょっと待ってくれ。淡水はもともと冷たいのだ。温度を上げるなどしたら、吾輩の命がどうなるか分からない。
 私が何もできずに慌てふためいていると、少女の行動を目にしていた母親がそれを制す。
「お湯を入れたら、お魚さんは死んでしまう。あなたにとっての優しさが、誰かにとっても優しさだとは限らないよ」
「でも、お母さん、誰かが寒そうなときに、温めてあげられる人になりなさい、って言ってたから」
 少女は半泣きしながら答えた。死んでしまう、という言葉は、少女にとって少しショックが大きかったようだ。
「ごめんね。あなたはお魚さんに優しくしようとしたんだよね」
 母は少女をなだめた。少女に先の教えを施すということは、この母にとっても、誰かを温めることが優しさなのだろう。もしかしたら、夫から一定の距離を保たれているこの母も、今まさに寒がっているのかもしれない。
「そうだ、名前つけようよ」
 しばらく少女をなだめていた母は、突然の提案をした。
「お母さん、それ、ナイスアイデアだね」
「でしょう?それが優しさかもよ。ずっとお魚さんって呼ぶのもさみしいでしょ」
「じゃあヤサピーにしよ?」
 ヤサピー。いいのか、それで。
「ヤサピー!いい名前。「優しさ」の「やさ」から取ったのね」
 反対できる術はない。やれやれ、名前など我が人生、もとい、魚生において与えられることなどないと思っていたのに。
「ヤサピー、これからもよろしくね」
 母と少女は吾輩を見つめてほほ笑んだ。ほほ笑み返すことなどできないので、代わりに口をぱくぱくと動かした。

 吾輩は問題なく生き延びた。あのとき少女のやろうとしたことが、結果として吾輩の命を危険にさらすことであったのは確かだ。それでも少女の優しさは、吾輩に伝わったように思う。同時に、少女を泣かせてしまった母親のそれも、母親の優しさなのだと思う。優しさの定義にもいろいろあるということだ。
 あえて冷たいままにされている水槽の中で、吾輩はその後も悠々と暮らしていった。不器用な人間の親子の、優しさの進化を見守りながら。

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