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幸福な戦争

 彼女は、激怒した。邪知暴虐なる彼氏が、「質の高いチョコレート以外、もらう気はない」と言って、プレゼントしたチョコレートを受け取らなかったからである。ひとくちでも食べたならまだしも、包装紙すら開けずに、手作りで作ってきたチョコレートを、本人に突き返したのだ。

 あの日から、1年。来るべき、バレンタインシーズン。彼女は今年こそ、彼氏が昨年の無礼を土下座して謝ってしまうほどの、美味しいチョコレートを作ってやる、と、並々ならぬ決意を抱いていた。

 彼氏の目を忍び、悔し涙を飲んだあの日から、できることは、すべてやってきた。チョコレートの作り方をいちから学び、美味しいお菓子とは?そもそも美味しいとは?というところから、必死の想いで勉強してきた。料理教室にも通ったし、スイーツの本場であるパリへ修行に行き、幾度となく失敗と成功を重ね、このシーズンを迎えた。調理時にミスなく作業できるための精神力を鍛えるために、山中で滝に打たれた日もあった。

 1か月前から入念に仕込んだチョコレートの材料。この日が美味しさのピークになるように、最大限の工夫を凝らした。見てろよ彼氏、と、言わんばかりの、彼女の執念。昨年と変わらず、毅然たる態度でそれを迎える、彼氏の余裕。

 例の日のふたり。自分史上、最高。彼女は、文句なしにそう言える出来栄えのチョコレートを、彼氏に渡した。包装からして、もはや芸術の域である。珠玉の一品。そう言っても差し支えないであろう、そのチョコレートの包みを、彼氏は少しずつ、丁寧にはがした。

 はがされた包装から出てきたのは、これまた美しい形状のチョコレート。彼氏は、すん、とにおいを嗅いだ。すると、すっと包装を元に戻し、彼女に突き返した。きょとんとする彼女に、彼氏はひとこと。

 「お前はやりすぎだ」なんて言葉だったらよかった。彼女はそう思った。そうではなかったからだ。

 「香りが、足りない」

 彼氏から告げられたのは、そのひとことだけだった。それにもうひとこと、「気持ちだけもらっとく」なんて言われたのが、逆に悔しかった。

 失意に沈む彼女。これまでの努力は、なんだったのだろう。このチョコレートを作るために費やした時間は、お金は、労力は。すべてが無駄だったというのか?神さまに問わずにはいられなかった。

 しかし彼女は、彼氏のひとことを思い出す。「香りが、足りない」つまり、包装は良かったのだ。包装すら開けてもらえずに、突き返された1年前とは違う。そう、わずかではあるものの、確かに進歩していたのだ。

 彼女の瞳に、執念の炎が再燃する。この日から再び、彼氏に食べてもらうためのチョコレートづくりの修業が始まった。

 毎日の瞑想に、山ごもり。すさまじくハードな修行を乗り越えた、翌年。彼女はまたもや、彼氏にチョコレートを食べてもらえなかった。昨年と違ったのは、香りを嗅いでもらえたことと、チョコレートの表面に唇を付けてもらえたことだった。彼氏から受け取ったのは、「表面のくちびる心地がだめ」というひとこと。くちびる心地ってなんだ?そう思いつつも、わずかにでも進歩していることを自覚し、彼女は再びチョコレートづくりの修業に精を出す。

 翌年こそ食べてもらえたものの、「味が全然だめ」のひとこと。そこからは、修行して食べさせては酷評されて再度修行、修行して食べさせては酷評されて再度修行。そんなことが数年は繰り返された。しかし、ついにその日は訪れる。

 場面はとあるテレビ番組の生放送現場。バレンタイン企画として、世界最高峰のパティシエと、神の舌を持つグルメ評論家の対決が行われようとしていた。暦年の戦いの末、彼女はパティシエとして頂点を極め、彼氏はグルメ評論家としてあらゆる食ビジネスの現場に引っ張りだことなっていたのである。

 そんなふたりの因縁を知ったテレビ局が仕組んだ、世紀の決戦。彼女が作り上げたのは、もはやチョコレートという名前がもったいないほど芸術的な洋菓子。作品名は「バベル」。さすがの彼氏も、その神々しいまでの造形美に、たじろいだ。

 しかし、さすがは幾多の現場を渡り歩いてきたグルメ評論家。彼女の作品を目にした数秒後には、平静を取り戻した。さらには、一口目を口にする。はっとする表情を浮かべる彼氏。何か、そこには「まだ信じるには値しない」といった迷いが感じられる表情だった。その迷いを断ち切るように、二口目、三口目と口にしていく。

 驚くべきことに、あれだけこだわっていた彼氏が、涙を流しながら洋菓子を食していた。気づけば洋菓子は、残りひとかけら程となっていた。そしてそのひとかけらを食べ終えたとき、そこにはふたつの婚約指輪のようなものが。

 「完敗です」彼氏の発言は、彼女への最大の称賛とともに、彼女のプロポーズを受け入れるという宣言と同義であった。彼女も涙しながら感激し、思わず二人は抱き合った。番組放送から数日後、彼らは入籍した。

 数年後、彼らに子どもが生まれた。誕生日は2月の14日。とても食にうるさい子どもなのだと、近所ではもっぱらの評判らしい。

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