「狂気」こそ、サポーター文化の本質である。
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「狂気」こそ、サポーター文化の本質である。

六分間練習

 

先日みぎさんから、こんなツイートがありました。


さて個人的には、スタジアムの「狂気」が、チームを勝たせることにも、また観客動員数をおしあげることにも、大いに貢献していると考えています。また同時に、「根拠を端的にしめせ」と問われてもなかなか返答に窮するテーマである、とも考えます。

そんなわけで、ツリーの文脈からは少し離れてしまいますが、Jリーグのスタンドに基礎づくサポーター文化について、個人的な見解を僭越ながら、普段あまりゴール裏へと足を運ばないファンの方々にむけて、しめしていきたいと思います。「狂気」の有用性をすこしでも提示できればと思います。



1.サポーター文化の歴史性 名古屋を例に


名古屋グランパスのゴール裏に足を運べば、そこにはいつも「非日常的」な熱狂空間がひろがっています。その雰囲気に浸っていると、海外サッカーシーンにおける熱狂的スタンドの表象がわずかでも脳裏にある人間ならば、「欧州や南米に著しいラディカルなファンダム※」、つまり、「いわゆる『狂気』がベースにある本場のファンダム」のイデア的世界が想起させられることでしょう。

※ファンダム【fandom】「サポーターではなく、ファン・カルチャー、ファンの基盤、ファンであることの要素を包括的に表す」(小笠原博毅「イギリスのサッカー研究の系譜とカルチュラル・スタディーズ」、スポーツ社会学研究24-1、2016)


肝要なのは、この「いわゆる『狂気』がベースにある本場のファンダム」に類するものが、名古屋ゴール裏から自然発生してきた(あるいは一朝一夕のうちに成立した)とは考えにくい、という点です。さて、名古屋グランパスのゴール裏をとりしきる集団としてウルトラス名古屋 : ULTRAS NAGOYA (UN) がありますが、この「ウルトラス」とは、南欧を発端とする応援文化・集団のことを指すようです。そこには、観戦空間の秩序に反してでもチームを後押しする(デカイ旗をお構いなしに振る、発煙筒をバンバン焚くなど)、相手を侮辱する(挑発的な歌を歌う、相手を揶揄する横断幕を出すなど)といった特徴がみられます。「ウルトラ」という文化は、「狂気」の文化の代表例であるといえるでしょう。ウルトラス名古屋が、その「狂気」の文化を矢面にたって取り入れることにより、現在の熱狂がある。このように考えるのが自然と思われます。本場と比べてしまえば「狂気」の度合いに差こそみられるものの、とはいえそれを大々的にとりいれるというのは、ひじょうに勇気のいることであり、また少なからず反対勢力による抵抗もあったものと存じます (たとえば「パイフラ水掛け論争」など ↓ )。

https://twitter.com/heavy_stereo_/status/491104235098869760?s=17

ここで僕自身について申し上げますと、名古屋のゴール裏にはじめて参戦したのは10年以上も前のことになります。当時は現在のような熱狂こそ感じられなかったものの、そこにはやはり「ウルトラス名古屋」の存在があり、いま思うと、現在のようなファンダムがすでに胚胎していたのではないかと推察します。2シーズンほどホームゲームや近場のアウェイに足を運んだ後、部活動などでしばらくご無沙汰をして、2015シーズンに再び現場へ戻ってくると、思いのほか旗がたくさんあってびっくりした。僕の個人的な略歴や率直な感想などについてはまあ、そんな所となります。

それはさておいて、要するに、「いわゆる『狂気』がベースにある本場のファンダム」に少なからず憧れ標榜する過程において、さまざまな困難や対立を乗り越えてきた先人たちの積み重ねによってこそ、今の名古屋ゴール裏があれだけの勢いにあるのだと、僕個人としては思うのです。

SNSの普及も手伝って、なかなか論争の火種が絶えません( ↓ )。


ここから敷衍すると、Jリーグのサポーター文化全般が、「いわゆる『狂気』がベースにある本場のファンダム」に基礎づけられてきた歴史を持つといえるのではないでしょうか。

もし、そのような事情があるとすれば、その基礎の上に成り立つパイフラやゲーフラといった文化の上澄みを都合よく踏襲しておきながら、おおもとの「狂気」のみをピンポイントで滅尽してしまおうという方策は、いささか無理があるように思われます。

たとえば、上述したウルトラ文化の特徴2例:秩序への反抗、ラディカルな言動 も、たがいに性質のことなる特徴のようにみえて実は、根源的には「狂気」というモチーフに支えられたものという点で軌を一にしており、より具体的にいえば、そのモチーフとは、「相手をたおして、何がなんでも自分たちを勝利に導きたい」という、きわめてシンプルな動機にほかならない、と考えます。つまり極端にいえば、パイフラを思う存分ふりまわすことも、立って声を出すことも、ジャンプすることも、中指をたてることも、その基本的な動機としては大差がないということになります。まとめるならば、この「狂気」こそが、熱狂を生みだす原動力たりうる。やや表現を譲っても、すくなくとも熱狂の「大部分」は「狂気」によって下支えされている。僕としては、このように考えるわけです。



2.「その『狂気』の発現がスタジアムで許されるか否か」を分かつ分水嶺


さて、そのフットボールの「狂気」については当然、世界中を見渡せば、いたる所に暴力や差別といった憎しみの歴史が横たわっているわけなので、われわれサポーターには、「『狂気』を発現させつつ許容範囲内にとどめる」というたいへん難しい振る舞いが要求されることになります。

そうなると最終的には、どのあたりまでを「狂気」の発現の許容範囲として定めるのか、そのための境界線、分水嶺は何なのか、という議論にたどり着きますが、僕個人の信条として、また多くのハードコアに通底するであろう考え方としては、フーリガニズム( フーリガン現象:hooliganism)・一般的な意味合いとしての差別(discrimination)という2大社会的に正しくない現象にさえ至らなければ、スタジアムという非日常の空間において、ラディカルな言動はおおよそ許容されて然るべきである、というものがあります。(要は、暴力と差別以外ならだいたい何してもOKというやつです。)

とはいえ、以上のような基本的方針はあくまでも「方針」に過ぎません。きわどいところでは、たとえば、スタジアムで「死ねクソ審判!」と叫ぶことに責任は生じるでしょうか。あるいは、とりわけ昨今の衆目をひいている「中指」問題はどうでしょうか。もっと優しいところでは、そもそも相手を挑発するマテリアル(旗や横断幕など)なんかは、一体どうなってしまうのでしょう(このへんについては、コアの間でも意見が分かれるところだと思われます。僕は全然アリだと思います)。またそもそも、差別が「自他を弁別する本能」から生ずるものであるとするならば、考えようによっては、ホーム&アウェイそれぞれのサポーターを隔離させること自体が差別ということになってしまいます(もっともこのような見解については、あまりにナイーヴで現実離れだということは重々承知ですが)。とにもかくにも、「狂気」についての認識を曖昧にしたまま、それでもわれわれはやっていくしかありません。



3.「新規にやさしく」とは言うけれど


よくある言説に、「ゴール裏は新規サポーターをやさしく受容すべき」というものがあります。僕もその通りだと思います。思い返してみれば、僕が初めてゴール裏で応援したのは2006シーズンの夏場、甲府戦(5-1大勝)と記憶しているのですが、そのとき、排他的な空気を感じることはありませんでした(ガキで鈍感だっただけかもしれませんが)。そしてそのことが、「いまでも楽しく名古屋グランパスと付き合えている」という事実につながっている。そのことは否めません。

かといって、排他的でラディカルな「狂気」のサポーターに対し、即座に退場を言い渡すというのは、彼らへの敬意を著しく欠いた行為といわざるを得ない。ここまでお読みいただいた方(ありがとうございます)に、その理由を説明することはもはや不要でしょう。最近では、岡山の若手グループ「DRB」の一件が話題になっていました。

大切にしたいのは、月並みになってしまいますが、「互いにゆるしあうこと」なのではないでしょうか。新規とコアのふるまいを、互いに生あたたかく見守る。難しいとは思いますが、やっていけるといいですね。



【おまけ】個人的に激しく同意するTwitter界隈の意見たち


最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。さいごに僕からも一言くらい叫ばせてください。






名古屋以外のクラブ、全部負けろ。


ありがとうございました。 



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六分間練習
六分間練習では調子よさそうでした。