見出し画像

卑屈なTwitter小説解説No5[魂の腐敗臭]

 こんばんは。

 Twitter小説は第5回目。
 今回は、Twitter小説の効能についてお話しします。たくさんあります。まず、読むと血行が促進され、代謝が良くなります。二つ目に、リウマチ、神経痛、創傷が若干緩和します。三つ目にはなんといっても、読後の水分補給、これがたまらない。からからに乾ききった体にアルコールなんて入れたら、もう……
  ?

画像1

 第5回は「魂の刺激臭」です。
 冒頭「僕は平和が好きだ。」
そんなこと言うやつはまず信用できません。平和の有無にかかわらず、一人の人間が抱え込む絶望の絶対量はいつの時代も同じだと思います。
「愛し合う人々がそばにいるだけで幸せな気分になれる。そして僕も誰かと愛し合い、周囲の人々を幸せな気分にさせれれば良いなと思ってる。」
この文章を読んだ人が、不快な気持ちになってくれれば良いなと思います。じつに腹立たしい、無責任な現実認識です。笑えるほどのすがすがしさもない。
「日本人は、世界で最も愛に溢れる民族だから」
ここに、あらためて付け加えることはないです。
「今日も数字が増えたらしい。連鎖販売取引みたいだ。誰かが裏で操作しているのではないかと勘ぐってしまうな」
以前、Twitterの急上昇に陰謀論関係のYouTubeの動画が一瞬表示されて、数時間後になんの予兆もなく消えたのですが、あれはなんだったんでしょうか。
陰謀論は非常にわかりやすい世界観を提示してくれるので、とても強い影響力を持ちます。道徳や倫理、あるいは教養主義はとっくに死滅していると思いますが、陰謀論に対するフィルターがまだ残っているところを見ると、一部生き残っているのだなと感じます。突飛に聞こえるかもしれませんが、小説家と陰謀論者は非常に似通っていると思っていて、いかに陰謀論的言説の旨味に背を向けるか、(少なくとも創作者にとっては)その態度表明はとても重要です。
「憎しみが腹で煮えくりかえって、口から吹きこぼれた」
(回想)吐き気、というのは高校時代の僕の慣用句でした。サルトルにかぶれていたわけではなく、ことあるごとに吐き気という比喩を使いたがったのでした。とにかく、いろいろなものに吐き気を催し、ついには表現への衝動を吐き気、作品を嘔吐物、と関係づけたりして、とにかく他人に理解されづらい執心だったのでした。
「シックハウス。咳き込む、なにもない。」
ほう。
「大勢いる年寄りよりも、マイノリティの若者に目配せしておくことが今の政治的流行なのだ。」
民主主義については、暇なときに真剣に考える必要があります。
「略奪と膨張を繰り返して、醜く太り身動きのとれなくなった老体国家に、僕は誇りを覚えたことがあったか?」
「ステイホーム、忠犬のような人生。」

どんなに人生で成功したとしても、高校生、中学生のころの、もっとも尊敬されるべき時代の自分に軽蔑されたら終わりなのです。つまり、あのころの自分が読んで「なんだこいつは、レベルの低いカス」と思われたら意味がないわけです。


「僕が取り戻せると信じていた平和は、単なる暇つぶしの概念遊びに過ぎず、切羽詰まって余暇が切り詰められれば、顧みられることもなくなるのだ。初めからそんなものはなかったのだと言わんばかりに。キーワードは断絶と軽蔑、換気された部屋は信じがたいほど息苦しい」
小説は自由だ、とおっしゃる方は大勢いますが、その「自由」がクリシェと化していることに自覚的な人は少ないのではないでしょうか。たいていの人は「勝手なことをするな」と自由に対して(無意識かもしれませんが)否定的です。自由な表現と、「自由」という概念についての表現は別物ですから。
価値観の多様性も同様です。多様性は苦痛です。多様性のためには、この苦痛を楽しむ精神的な反転が必要になるのですが、ここには、芸術は役に立たないが、それゆえに面白い、みたいな感覚に近いものがある気がします。
多様性も自由も虚構です。ありません。それら概念が存在する時点で、幻なのです。

人生似幻化
終当帰空無

この小説は一人の登場人物の内面描写というかたちをとります。たまに()に囲って登場人物の心の声を表現する小説がありますが、いってみれば「魂の刺激臭」は()の中身だけの小説ということです。なので、風景描写が一切ありません。「梅雨の雨に染められた紅葉が碧山を彩り、早朝の黄雲を滲ませていた」とか「口元を覆った人々は、同じ極の磁石のように互いを避けながら移動し続けた」とか無いわけです。
じつはこの括弧というものは、小説において数少ない既存の、しかもわかりやすい道具です。ここには拡張性があると考えてるのですが、まあ、あまり込み入った話はやめましょう。「ハア? コイツナニイッテンノ?」ぽかんとした顔で言われるのは僕としてもつらいのです。
 とにかく、括弧というのは、一種の事前通告です。たとえば「これから誰か喋りますよ」とか「引用しますよ」いうような。僕の言う拡張性というのは、括弧内にもう一つの世界を作ることです。比喩的に言えば、括弧は一種の窓であり、穴なのです。そこから向こう側の世界をのぞき見ることができます。もう一つ比喩を重ねるなら、それは織物につくられた虫食いの穴です。いかに美しい織物でも、そこに虫食い穴があると意識はどうしてもその穴に向いてしまう。この穴さえなければ、と誰もが思う。しかし、その穴の存在が、人の視線が上滑りしてしまうのを防いでいる、と考えることもできるわけです。

画像3

https://www.musey.net/1959/1965

ショーペンハウアーはこの世界は最悪がデフォルトで、人間は幸福になるために生まれついたのでは「ない」と言っています。まず、幸福になる、という考えを捨てるところから始めなければならないのですね。でもそこには主体性があります。最悪な世界を受動的に漂うだけでは、とてもじゃないですが生きてゆけないはずです。たぶん、死んだほうがマシです。だからこそ能動性、現実を組み替える技術が重要なのだと思います(という風に僕は読みました)。
この見地は、憂鬱なコロナ禍において、多少は心の支えになるのではありませんか。

画像2

水上滝太郎の「貝殻追放」との関連については解説No3ですでに書いてしまったので省略します。ではまた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?