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【短編小説】仕事終わりにデモに参加して、ホテルでとなりのトトロの再放送を観て、他人のお笑い論を聞かされる、そんな金曜日がある。

来る夜道、鈴虫の鳴き声がやけに大きく聞こえた。久しぶりに聞いたような気がした。
線路沿いに小さな草むらがある。きっとそこに、ひしめきあって生息している。あの狭そうな限られたスペースにぎちぎちになって暮らすはめになって不満だから、あんなに大きな音を鳴らして抗議している。たぶん。
西口の改札を出てまっすぐ商店街の方へ入っていくと、いつのまにか虫たちの気配は消え去っていた。でも、べつのやかましさは増していた。
公園にはすでに人だかりができていて、集合場所だとわかるようにプラカードをかがけている若者もいる。知っている顔、たしか、ええと、名前は……、若林、そうだ若林だ。話しかけようと近づいたら、気まずそうな顔を残して、何も言わずに人混みに紛れていってしまった。ひどい態度だと思った。
今日はじめて顔を合わせた参加者たちは、この公園を住処にする最低な蚊の群れの話題でもちきりだった。
「待っている間に何十箇所も刺された」と嘆く声、「水場に近づかないほうがいいよ」と忠告する声、「自分の血は不味いみたいで、昔から蚊がぜんぜん近寄ってこないんだよね」と自慢げな声。その他、同程度にとりとめのない内容にまつわる声がいくつか。ほかに聞こえるのは、耳元を旋回する蚊の生理的に絶対拒絶のあの羽音。
私はノースリーブで蚊の餌場なんかにいたくないと思って、道路の向かいの自販機のそばで待つことにした。デモ隊が動き出したら戻ればいい。
最初に私のことを誘った大学の後輩は、私がこんなに熱心に参加するようになるとは思わなかったらしい。
正直、熱心かどうかはわからないけど、二週間に一回くらいのペースで仕事終わりに参加するようになった。デモの主張自体にあまり関心がないのに、さも知ったような顔であれこれ叫ぶのは気がひけるところもあるけど、大声で叫ぶことはストレス発散にはうってつけだった。
普段から私はただ生存しているだけなのに、いろんなストレスが忍び寄ってきて、私に染み込もうとしてくる。だから、デモへの参加はデトックスみたいなものだと思ってる。マッサージとか、一人カラオケとか、2万以上する焼肉屋に一人で行くとか、いろいろ試したけど、今のところこのデトックスの代わりになる娯楽は見つからない。
「きみの悪い噂が……」
「あ?」
よく聞き取れなかった。
声をかけてきたのは、さっき私を無視してどっかに消えていった奴だった。今はプラカードを右脇に挟んでいる。
白いマスクをつけた顔が自販機に照らされて、いっそう真っ白に漂白されている。マスクの奥からこもった声。
「きみの噂だよ。信じたくないけど、信憑性はやけに高いし。なぜって、ぼく自身も証言台に立つ資格がありそうだから……」
「あのさ、根も葉もない噂を信じるの? だから陰謀論が流行るんだ、若林くんみたいなアホが存在しているから。私、じつは脳みそに鯛の白子を詰めてるんだって言っても、きみ、素直に信じそうだね!」
「信じないよ。きみの脳みそ直接見たことないし」
「絶対見せてあげないよ」
「見たくもないけど。まあ、この話はそんなに重要じゃないんだ」
「じゃあ今って、重要じゃない話をしてたの? そんなにお暇なの?」
「言うよ。本来の目的以外で参加するなんてどうかしてる。ここは、きみが漁り場にしていい場所じゃない。準備だって大変なんだし、真面目にやってない人なんて一人もいないんだ」
「でも、一回ポッキリの参加者よりは私のほうが持続性あるし、真面目でしょ? ……終わったあとの、打ち上げみたいなものだと思ってよ」
「ぼくたちは、理性的に連帯することが大切なんだ」
「いいね、理性的に連帯。叩けばいい音が鳴りそう」
「民主主義による世界の改良に、大げさな革命は不要なんだ」
「とにかく、私はやめないつもりだよ」
「悲しいんだ。きみには愛国心ってものは無いの?」
わざとらしいため息。愛国心という言葉を、冗談なしでシリアスに言う生身の人に会ったのは初めてだった。
「個人の小さな声をかき集めて巨大な声にするのが民主主義の王道なんだ」
「それって小銭を集めて紙幣に両替するみたいな感じ?」
「その一つ一つの声を誘惑するきみは、分子結合の解離を促す触媒みたいな存在だ」
若林の瞳の内側に燃える感情が見える。使命感とそれに伴う「やりがい」、ついでに嫉妬を燃料にたぎらせている、かもしれない。
ちょうどそのとき、デモ隊が動き始めた。若林はそれ以上なにも言わず、鼻息荒く、私に背を向けて行ってしまった。その背中に向けて、石でも投げつけるつもりで叫んだ。
「私、今日は参加するからね。ここまで来て、電車代もったいないし」
とはいえ、あんなこと言われたら気にしてしまうもので、私はデモ隊に合流してからちょっと聞き込みをしてみた。
それで分かったのは、私の噂、どうやらデモの常連たちは全員耳にしたことがあるらしい。誰が流してるのか知らないけど、心当たりならいくらでもある。
根も葉もある噂のせいで、正直なところ、今回が初参加じゃない人には声をかけづらくなった。
で、私の視界に彼が入るようになった。私が知る限り、これまでのデモで一度も見かけたことのない人物だったから。

壁に貼り付けられた液晶に、スタジオジブリの「となりのトトロ」の田舎の景色が映しだされている。追悼特番だという。半年間、毎週同じ時間にスタジオジブリ作品を一作品づつ、ストックが尽きたらドキュメンタリーを放送するらしい。
理由があって点けたテレビじゃないからいつ消してもよかったけど、逆に消す理由も見当たらなくてだらだら点けっぱなしの状態だった。
音が全く聞こえないくらい小さくて、リモコンで大きくすることもできるけど、なんとなくそんな気にもならなくて、映像だけを二人でぼんやり眺めてた。
液晶の枠の中の世界では、トトロとその腹にへばりついた二人の子供が田舎の夜空を飛行しはじめた。いったいなにが目的で空なんかを飛ぶんだろうと思っていると、どうやらそれは夢の中の出来事だったらしい。アニメの中の、更にその中の夢の世界。
「あのふかふかなお腹、触ってみたいね」
私が言うと、
「野生の獣の匂いがするだろうね。くさい」
と男の子が言った。
ベッドの上の彼は古い陶器みたいに布にくるまっていて、両目は抉れた影のように黒く渦巻いている。
「アニメなんだから、くさいはずないじゃん」
「もし現実にいたら、って話じゃないの?」
「現実にあんな動物いるわけないんだから、いるとしたら妖精かなんかでしょ。妖精がくさいなんて変じゃん」
「妖精もフィクションだよ。妖精には触れない」
「現実に妖精がいたら、それはもうフィクションじゃないでしょ。だったら触れるし、くさくもない」
「なんか、現実とフィクションの線引きが変だ」
「そもそも、現実にトトロがいるなんて考えるほうが変なの。あれはアニメだからかわいいんだよ」
「言いだしたのはきみのほうじゃない」
「何言ってんの? きみが急にトトロはくさいとか言ったんでしょ」
私はこの男の子の名前を知らない。知りたくないわけじゃないけど、知りたいわけでもない。
人が大勢いたら名前が必要だけど、ここには二人しかいないから、きみ、で事足りる。だからわざわざ聞くようなことはしないし、それから、聞かれる前から名乗ったりもしないつもりでいる。
徐々にフィクションの物語がシリアスな、重苦しいものに変わり始めていた。音がほとんど聞こえないので、理由はよくわからなかったけど、男の子が「母親の入院がのびたんだよ」と教えてくれた。どうやら、彼はいままでに何回も「となりのトトロ」を見たことがあるらしく、ストーリーを熟知していた。
と、ここで唐突に柔軟剤のCMが始まって、にこにこの若い女優が映し出された。無邪気で馬鹿っぽい音楽は、この部屋のプラスチック製のロココ調って感じの内装には似合っている。
「あのさ、どこかのタイミングで聞こうと思ってたんだけど」
と男の子が言いだした。
「どうしてあのデモに参加してたの?」
「さあね」
「さあね?」
「愛国心とか?」
「とか?」
「私はよくわかんないけど、みんなはそう言ってるね。不当な権利を許すな、って。侵略者を追い出すのが真の愛国精神だって」
「あの人たちは侵略者なんかじゃないよ」
「人数の問題らしいよ。これ増えたらまずいって。しかも、反日教育らしいし」
「らしい、らしい、って、どうして他人事なんだよ……、いや、ごめん」
私が思っていたよりこの人は真面目な人なのかもしれない。人は見かけによらない。
「私にとってはストレス発散なの。ストレス発散が誰かの役に立つなら、一石二鳥でしょ」
「いや、いいんだ。ぼくは人のことを言える筋合いじゃないんだよ。だって、ぼくには何もできなかったから」
男の子はなにかを言いたそうにしていた。誰かに話して楽になろうとしていた。
たぶん、明日が休みじゃなかったら聞き役になってあげることなんてしなかったと思う。時間にゆとりがあると、心にもゆとりが出て、いろいろと好奇心が湧いてくる。私は今、目の前にいるツイストパーマの、肌にはぽつぽつとニキビがあり、オーバーサイズの古着の袖から骨ばった腕を伸ばし、膝を立てて体育座りでベッドの上にいる、どこか後ろめたそうな表情がしっくり来るこの男の子がどうしてデモに参加したのか、その理由に興味がでてきた。
「ねえ、湯船にお湯をためてきてくれない?」
男の子がガラス張りのバスルームに向かうときにはCMは終わっていて、液晶にはいつの間にか泥だらけになった姉の姿が映し出されていた。

男の子はバスルームのプラスチックの椅子に座っている。度胸の足りない修行僧みたいに、弱い水圧のシャワーをちょぼちょぼと頭に当て続けている。
私は得体の知れない花びらの浮いた湯船に肩まで沈んで、男の子が喋りだすのを待っていた。けど、全然喋り始めないから結局こっちから訊いてあげなくちゃいけなかった。訊かれたから答えた、という言い訳を持ちたかったのだろうか。だとすると、面倒くさいことだと思う。
「ぼくはお笑いの勉強をしているんだ。」
そう言ってから、男の子はくすっと笑って、
「でも、今日辞めた」
と吐き捨てた。
「どうして?」
「自分の才能の無さを突きつけられた。ありきたりだけど。こんなこと続けていても意味がない」
「あのさ、私が大学を辞めようとしたとき、母親は『ここで辞めるなら、小学校から今に至るまでに払った養育費を返してもらうから』って怒ったんだよね。要は、私は母親にとっては一種の投資対象でしかなかったってわけ。将来の高給が見込めないなら、さっさと切って、とにかく投資金を回収することにしたの。結局、そんなクソな契約させられるくらいならと思って辞めずに続けてやった。全く無駄な4年間だった、就職にもたいしてプラスにならなかったし」
男の子がハンドルをひねってシャワーを止めると、排水溝にすべての物音まで一緒に流れ去ってしまったかのように静寂が湧いてきた。
「つまり?」
「私はどうすればいい? 続けなよって、応援する? それとも辞めて正解だよって言ってほしい?」
「自分でもわからない。ぼくは、お笑いを勉強したかっただけで……」
「何があったか話してみたら? 私みたいなのになら話しやすいでしょ」
「きみみたいなのって?」
「つまり、私たち他人でしょ。名前も知らないし、お互いに気安い関係」
唐突に男の子がくしゃみをした。爪が紫色に変色し始めていた。
私は浴槽の限界まで伸ばしていた足を畳んで、空いたスペースに男の子を招いた。男の子は小さな水滴みたいに音も少なくちょぽんと入ってきたけど、水嵩はそれなりに増した。男の子の内側に丸まるような猫背に、コブのような背骨が装飾のように等間隔に並んでいる。もっとご飯を食べたほうがいいと思う。
「笑わないで聞いてくれる?」
その懇願するような言い方からしてもう笑わせようとしているのかと思ったけど、表情が見えないからはっきりわからなくて、笑うのは我慢した。
「お笑いの勉強をしているのに、笑われたくないの?」
「勘違いしているよ、お笑いというのは技術で生み出すものなんだ。嘲笑はお笑いじゃない。それは単に他者に対する軽侮の表明で、まったく楽しいものじゃないし、次元も低いんだ」
「それって、どうやって見分けるの?」
「テキストで凡例を勉強するのが一番だけど、今ならYouTubeにお笑いアナリストのチャンネルがあるからそこから勉強するのも手だね。いずれにしても、まずは、典型的な状況下で発生させられるお笑いの種類を網羅することから始めるといいと思う。そうすれば、すぐに実生活でお笑いを発生させることが出来るようになるし、習うより慣れろっていうくらいで習得も早まる」
「そもそも聞きたいんだけど、なんで笑いって発生させる必要があるんだっけ?」
男の子は私の言葉に笑っているみたいだった。小刻みに肩が揺れていた。
「それは、どうしてお金って儲ける必要があるんだっけ、というのと同じだよ。お金こそがすべての合目的な目標でしょ。その空間のヘゲモニーを握るための人心掌握術であり、政治力や人間力の根源なんだよ」
「目標の人とかいるの?」
「ヒトシ・マツモトだね。彼はすべてを手にしている」
「あの、坊主の人?」
「ただの坊主じゃない。界隈であの方は黄金大笑(聖)人こがねのだいしょうにんって呼ばれてる」
男の子がうっとりした調子で私に寄りかかってきたから、両手で背中を押し返して言った。
「やっぱり、そんなにお笑いが好きなら続けたら?」
喋り方を一瞬のうちに忘れたかのように、男の子は静かになった。
話し始めるまで待つ間、私は浴槽の横についていたボタンをいくつか押して退屈と闘った。中でも面白かったのは、バスルームにたくさんのシャボン玉を吹き出す機能で、単純にきれい。しかも割れたところがベタベタにならない特別なシャボン液を使ってるみたいだった。別のボタンを押してみると、バスルームの照明が落ちて、代わりに下品な色のLEDレーザーライトが踊りだした。シャボン玉がその光を乱反射するようすを、私は穏やかな気持で眺めてた。
それもこれも、明日が休みだから許せることだし、明日が休みだから発見できたバスルームの秘密だった。
私以外でこの機能を知っている人っているのかな?
そのうちにお湯が冷めてしまったから、私たちはバスルームを出た。
となりのトトロはとっくに終わっていて、ニュース番組が始まっていた。神妙な面持ちのお笑いタレントが、神妙なコメンテーターとして、神妙なコメントしていた。
私は備え付けの冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。お風呂上がりで、しかもデモであれだけ叫んだあとだったのもあって、素晴らしい味がした。男の子はさっきよりも干からびたような様子で、何も飲まずに椅子に座っている。のぼせたようではなさそうなのに、さっきから焦点の合わない目をさまよわせている。
私は少し眠くなってきて、男の子の話なんてどうでもよくなり始めていた。
いつもなら、最後にひと汗かいて泥のように眠るのが心地よかったけど、今はもうこのまま眠ってしまってもいいような気持ちだった。だから、男の子が勿体つけていたその重すぎる口を開いた頃には、不本意にも、うとうとしていて、肝心なところを聞き逃してしまった気もする。
まあ、それほど惜しいとも思わない。

「……ぼくはもともと、お笑いというものには懐疑的だったんだ。ほら、チンパンジーと人間の表情がもっとも接近するのは、笑っているときでしょ?……
「……だけど、世の中の大半の人間は、自分をチンパンジーに近づけることに喜びを見出すんだ。この理性優位の社会に疲れた人間たちは、チンパンジーの世界、つまり肉体の世界に戻りたいと願ってる。だから、自分を笑わせてくれて、チンパンジーの世界に引き戻してくれるような面白い人、つまりお笑いが得意な人を自然と愛するようになる。理性を使った競争社会で、給与を上昇させることだけを目的にする無機質な人生にはうんざりなんだ……
「……だからお笑いというのは非理性的だし、進歩の歴史に反すると思う。残酷な人間ほどよく笑うんだ。でも、そんな事を言ってたってお笑いが持つ力の途方もなさはけっして減衰しない。だったら、生半可に反対なんてしてないで、自分でもその非合理的な方法を学んで、使っていくべきだと思った。チンパンジーを檻に閉じ込めたこの世界を、生き延びるための道具としてのお笑いを……」

つまり、女の子にモテたかったのね。

「そうかもしれない。でも何かを始めるきっかけっていうのは、だいたいそんなものだと思う……
「……ぼくはまず、YouTubeで情報収集をした。知っているかもしれないけど『ニッポンのお笑い大学校』というチャンネルがあって、ぼくはそこでお笑いの基礎を学んだ。お笑いを勉強することで、入試の文法問題のように解答の勘所をつかめるようになった。どんなタイミングで、どんなことを言えば笑いが生成されるのかがなんとなくわかるようになった。あくまでもYouTubeは初学者向けだから、ある程度の手応えを感じたあとは、お笑いの国家資格の勉強にも手を出しはじめた。で、半年後には初級笑学知識検定にも合格した、独学でね……
「……お笑いの勉強に真剣になりたかったから、このころにバイトは辞めた。専門学校に通い始めたのは、座学でのお笑いには自信があっても、実技に不安があったから。それに、じつは中級検定を受けるには実技の対策が必須なんだ。……
「……ところで、お笑いにおける重要な三要素であるゆとりあるもの機械室しめきられたもの空気温度うつりゆくもののうち、ぼくは魂の操作は苦手だったけど、空気温度は比較的得意で、危機的な状況下でのリカバリ、オビワン・ケノービの崖掴まりからの大ジャンプみたいなことは、難なくできた。だから空気温度を専攻することにした……

その三要素って初めて聞いたんだけど?

「……常識は知っていないと恥ずかしいよ……
「……三要素は、熱力学の三原則より有名だよ。ボイル=シャルルの法則くらい汎用性があるし、ブラウン運動よりも活発なんだよ。これを発見して提唱者したのは近代お笑いの基礎を形作ったアメリカ合衆国一の洒落者 V.アラバマだと言われていて、曰く『お笑いによって笑ったものは幸福である、なぜならその笑いは作りのもの偽装された笑顔よりは多少は真実に近い笑顔だからである』が、それは限定的な場面でのことにすぎない。なぜなら『もし真実の笑顔が現れれば、人工的なけいれん性の笑顔など、叩きつけられたショットグラスのように破砕する』からだ……
「日本でのお笑い環境の整備の進展には諸説あるけど、ベルクソンの国内への紹介が一枚どころか二、三枚、絡んでいるという説をぼくは推したい。あとは、ボードレールの詩句に注目してみるといいと思う。あの涜神は、お笑いに通ずるところがあるよ……
「……笑みは咲みだが、お笑いにはとても植物的瞑想性は無いという点が、問題を無駄に複雑化している……
「……まあ、事実上、悲しみの相似形だけどね……
「……だからこそ、機械室という締め切られた密室要素の重要性が貶められることになったんだけど、さっきも言ったようにここ数年での再評価には日本人の過剰なお笑いへの執心が影響しているのは間違いなくて、そういう点でも、ぼくは空気温度には現状を打破するだけの笑みスペクトルを見いだせると思うし、いくつかの理論的根拠もある。だけど、やっぱり実技で証明しないといけないから……
「……聞いている?」

え、……き、聞いてるよ。空気の温度だよね、涼しくてね……。
と言いながら、私は眠りかけている。
でも、こんなにお笑いの話を耳元でされていたら、夢にも出てきそうで困る。
魂・機械室・空気温度、こんな面白みのない言葉がお笑いに関係してくるということがにわかには信じられないでいる。

「……言ってみれば卒業試験だったんだよ。今日のデモへの参加は。空気温度の実技試験として、もっとも困難な状況でお笑いを生み出すことがね……
「……デモっていうくらいだから、真面目な人が大勢いるんだと思って、ぼくはそういう対策をしてきた。真面目な人を笑わせるのは、例えて言えば、猫の鼻先に猫じゃらしを踊らせるようなものなんだ。つまり簡単。でも、実際にはぼくの想定していたタイプの人は全然いなかった。真面目というより愚直に真剣な人たちだった。しかも、その空気温度は、決してお笑いから遠いものじゃなかった。お笑いを締め出そうという真剣さではなかったんだ。ぼくはもっと低い空気温度を想定していたんだ。でも、そうじゃなかった……
「……だって、ゴキブリは殺虫剤で殺してやる、汚れた血の奴らは勝手に入ってくるな、国に帰れ穢らわしい野蛮人、臭せえんだよ出て行け、クズ野郎のブサイクな遺伝子をこの国の純血に混ぜるな、とかいう言葉を大声で叫ぶのは、尋常じゃないと思うのが普通じゃない?……
「……悪い噂ばかりを聞いていたんだ。肩身の狭い特定の人種の人たちに対して、無理のある理論で過激な排斥運動をしている人たちだ、って。YouTubeでデモ隊がカウンター勢力の自警団とぶつかるところも観ていたし、変な人たちの集まりなんだろうな、って。だけど、たとえば、君みたいにぼくなんかの話を聞いてくれる普通の、いや、もう何が普通なのかもわからないけど、つまり何ら特別じゃない空気温度の操作でにこやかに笑ってくれる人たちばかりだったんだ。とても善良そうな笑顔だった。しかも、デモに初めて参加するぼくにとても優しくしてくれた。……

噂なんて、どこまでいっても噂。たとえ、映像や写真に残っていたとしても。

「……ぼくはたしかにモテたくて、他人から人気になりたくてお笑い学を勉強し始めたけど、だけど、みんなが喜ぶことを言って、みんなを喜ばせる、それにいったいなんの意味があるんだろう。退屈な予定調和じゃないか? って思ってもいた。もっと、社会を善いものにしていくために、お笑いを使うべきなんじゃないか、って。そうさせる力があるんじゃないか、って……
「……でも、いくらぼくが面白いことを言っても、デモ隊の暴言は全く弱まることはなかったし、むしろ活気づいた。ぼくは水をさしているつもりでも、結果は油を注いで、火柱をさらに高くしただけった。お笑いは人を元気にするというけど、たしかにデモ隊の人たちはお笑いで元気になってた。でも全然、喜べなかった……
「……殺伐とした空気温度が支配する世界を、お笑いで覆い尽くしてほがらかにして、そのついでにぼくがモテればいいなって、思ってた。でも今日、それが無理だってわかった。ぼくのお笑いは、いやもしかするとすべてのお笑いは、世の中に笑い声の騒音を多少増やすだけで、何も変えることはないのかもしれない。お笑いによる平和? そんなのは、すくなくともぼくには夢のまた夢、夢を抱くことも許されないくらいに、ぼくには才能がない。……」

べつにいいんじゃない?
実を言うと私、お笑いってくだらないから、あんまり好きじゃないんだよね。

「くだらないって、どこが?」

どこが、とかじゃなく、全部。

翌朝、私たちは無言だった。電車の車両に偶然乗り合わせたみたいに、一言も言葉をかわさなかった。
そしてそのままホテルを出て、別れた。別れ際のやりとりとかも、特になかった。単純に、私たちは他人だった。
空は今にも雨になりそうな曇り空だった。台風の予兆というわけでもなく、ただの、いつもある毎日のなかの一日、灰色のホコリの層が空を覆う、薄暗い朝でしかなかった。

ところで話が少し遡るけど、さっきまで私は夢を見ていた。
夢の中で、最初から自分が夢を見ていることに気づいていた。タツロー・ヤマシタの音楽の鳴り響く居心地の良い空間で、私はとても楽しい気分だった。だからこそこれが現実ではないと確信できた。
排水口の髪の毛みたいにずっと私の喉や瞼の内側や心臓のあたりに絡みついている不安や虚しさが、無い。それは現実ではありえないことだった。急になんの前触れもなく、この倦怠感が取り除かれるなんてことは。
私以外の人たちは、たぶんここが夢の世界だと知らないのに我を忘れてはしゃいでた。お酒を飲んで、冗談を言って、たまにセックスをして、あとは眠るだけ。ただただ楽しいだけの場所。なんの懸念もない、庶民的な天国だった。
そこで私は最初こそみんなに合わせて楽しく歌ったり、踊ったりするんだけど、誰か知らない人の私に対するなにかちょっとした言葉が気にかかって、それで少し落ち込む。私がもう少し繊細だった頃に実際に言われたことのある言葉だった気がする。そのせいで、一度この小さな享楽に満ちた楽園の外に出て、冷たい外気を吸いたいと思う。それで私はぐるっとあたりを見渡して、初めて窓が一つもないことに気づいた。扉も一つもない。
この楽園は窓も扉もない完全な出口なき密室で、実際のところ全くリアリティがなかった。普通に考えれば、外から何も供給されない空間に待っているのは、食料にしても酸素にしても娯楽にしても、ありとあらゆるものの餓死だけ。でもまだ存続していた。なぜなら私の夢だから。
このリアリティの無さは、むしろ私を元気づけた。
ここが閉め切られた場所だという事実に直面した途端、外の空気なんてどうでもよくなった。
普通なら生きられない場所で生きていることが、死を正当化してくれる気がした。「こんな世界なら死んでも仕方ない」と。
生半可に、外へ出るという選択肢があるからいろいろと余計なことを考えてしまう。もし、外へ出るなんてことは絶対に不可能だという事実があれば、そのときには絶望ではなくむしろ、絶対にこの閉じられた世界の中を満喫してやろうというやる気がうまれる。
さて、そんなふうにやっと前向きな気持ちになれた途端に、安ホテルのブラインドでは封じきれない量の白い朝日を顔にかけられて、嫌々ながらに目をさますことになった。
そして再び、喉や瞼の内側や心臓のあたりに、冷たい体を泳がせるなにか得体の知れない魚のようなものを感じはじめる。
でもすぐに今日が土曜日だと思い出して、私はなんとか体勢をたてなおした。

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