【短編小説】そこがあんたのいいところ
▽現在、FH
熱気に包まれたステージ上で、椎那は水色のベースをかき鳴らしている。
老人たちはステージを取り囲むように遠巻きに、崩れながら見守っている。椎那のベースのリズムに誘われてきた若者たちは、初めての情動を受け止めきれない。
荒野のガイノイドやAIバーテンダー、楽器の町医者や電気じじいも加わって、縦方向に跳躍しながら奇妙で親密な連帯感をみせている。
椎那はいつも通りの涼し気な表情だけれど、その頬はかすかに火照っていて、透明な汗が額に滲んでいる。金属質の光沢を放つ長い黒髪は、紺色の制服のスカートとポロシャツと相まって、肌の白との間に強いコントラストを作っている。
その安定した演奏に身を委ねていると、唐突にリズムとリズムの狭間に到達する。凪の海にかかる雷雲のようなその不穏はじつは、椎那の演奏に組み込まれた想定通りの演出だった。
椎那の髪の毛がふわりと浮き上がったかと思うと、一気に激しさを増す動きに合わせたベースソロが、老人壁に囲まれた会場に響き渡る。
怒りと喜びの混じり合う重い無音のリズムは、林を含めた客席の人びとの心臓の鼓動を10倍にした。いつもの10倍の血液が血管を迸り、一時的に常軌を逸してしまう脳が、気持ちよくなれるケミカルを過剰に精製する。人工脳の持ち主も含め、皆ひとしく最高の気分で、シャンデリアのぶら下がる天井付近までぶち上がった。
もちろん、壁を形成する選抜落ちの団結老人たちも同様の興奮ぶりを見せている。壁に塗り込められた百近い老人たちの顔は太陽を見つけたアサガオのように一斉に花開く。にこやかな、静止的な老人の微笑ではない、躍動する歓喜の破顔!(壁は部分的に砕けていて、地面に散らばった壁の破片も、人びとに踏みつけられながら同様の笑顔だった。)
林はステージの下で椎那を見上げている。真剣に楽しんでいる表情の椎那を、林は初めて見た。両脇を固める選抜老人のギタリストたちとドラマーに、少なからぬ羨望を抱いてしまうほど椎那は魅力的に輝いている。
その素晴らしい演奏をずっと体感していたいという気持ちはもちろんある。
でも、林には先にやらなければならないことがあった。
そのとき、カラスを使役する小学3年生のおぞましい影が林の視界の端を走り抜けた・・・・・・。
▽数時間前の学校
軽音楽部の部長が家から持ってきた弁当にあたって、午後の全体練習は急遽キャンセルになった。つまり、路地裏のライブハウスFHで、椎那がベーシストとしての頭角を現すことができたのは、部長の弁当箱の中でうごめいていたサルモネラ菌のおかげだったということになる。
部員の誰ひとりとして保険室に様子を見に行こうとしなかったのは、部長の人望が薄すぎたためと思われた。そんな人間がどうして部長になれたのか? おそらく、誰も真面目に部長決めの投票に参加しなかったに違いない。大げさに聞こえたジョン・デューイの「学校とは社会の縮図」という言葉が点滅する。
とにかく、突然の午後休暇は椎那と林を含む部員全員を幸せにした。部長が下痢と腹痛に苦しんでいるならなおさらだった。
帰り支度をする50人超えの部員たちでごたつく多目的教室で、椎那は林のモヒカン頭を探している。人混みの中からすぐに見つけだすと、林ぃ!と離れた場所から大声で呼びかける。
林は驚いて振り返る。同学年の部員たちがくすくす笑っている。
自然とみんなが避けたことでひらけた道を、つかつかと歩いてくる椎那に、
「心臓が飛び出すかと思ったよ・・・・・・」
語尾が消えていくような、繊細な喋り方で林が言う。
「もし飛び出したらあたしが拾ってあげるよ」
「それなら最初からあんな大声で呼んだりしないでくれればいいのに・・・・・・」
「しょうがないでしょ 一刻を争うんだから」
「・・・・・・嫌な予感がする」
「むしろ逆! せっかく暇になったんだし、今から遊びに行こうよ あんたも暇なんでしょ?」
教室の半分開いた窓越しに、農薬散布用のドローンの狂気の悲鳴が聞こえて、教室内の空気がぴんと張り詰めた。もちろん、機械は叫んだりしない。モータ音がたまたまそう聞こえただけだった。
三階を超えて四階へ、どんどん上昇していく。
うるさいね、そう言いながら椎那は窓ぎわまですたすた歩いて行って窓を閉める。透明な薄板に隔てられただけで、途端に悲鳴は他人事のように聞こえた。
ぜんぶゲリラ・アーティストのせいだった。
近頃、干からびた農地でよく見かけるようになったアート作品群。空に向かって伸びるコンクリートの円柱は大きいもので高さ70m、直径20mにもなる。人間の基本的な労働形態の一つである農業を搾取するスマート化への反対というストレートな理念、それは基地局と化したコンクリート柱列から放出される悪電波となってドローンに作用し、機械的発狂へと至らしめる・・・・・・。
窓から戻ってきた椎名は林の表情を見て取って「あたしの誘いを断るの?」と非常に驚いているようす。でも本当に驚いているのではない。周りに見せかけているほど、椎名は自信過剰ではなかった。本当はこうして遊びに誘うのだって、ちょっとした、一か八かの、冒険だったのだ。
「だって・・・・・・ 演奏会も近いし、ぼく、練習しようと思ってるんだ」
「明日でもできるじゃん」
「部長にも、もっと自主練頑張れって言われてるしさ・・・・・・」
「あいつの教え方が悪いんだよ そのくせ、練習量が足りないとか言って、他人のせいにしてさ あいつは音楽が何かをぜんぜんわかってないよ 練習して、練習して、練習して、そのあとは? 練習通りできなかったどうしよう、ってびくびくしながら本番の演奏をするの? それだけのためにあたしたちって音楽してるわけ? そんなの微塵も楽しくない 音楽ってもっと自由で楽しいものじゃないの?」
そこまで言うと、椎那は頭の中で考えていた部長のこれまでの横暴に対する制裁案を、林の耳元に顔を寄せてささやいた。アイアンメイデンなどを用いた、ふつう口にするのも憚れるグロテスクな草案を耳にしたためか、もしくは椎那の鋭く濃い黒髪の毛先が林の首元をひっかいたためか、林は赤面した。
「そんなこと、言っちゃダメだよ・・・・・・」
椎名は歯を見せて微笑む。
「でも、ムカつくじゃん あたし、言いたいことを言いたい時に言うの 喋りすぎって言われるときもあるけどさ、世の中が喋らなすぎなんだと思う あんたもそうしたら? けっこうおすすめ」
「そんなことできないよ」
「そう」椎那は机に頬杖をつきながら二つの瞳をまっすぐ林に向けて言う。「そこがあんたのいいところかもね」
規定高度を越えて自爆装置が起動した農業用ドローンが上空で爆発した。でも、多目的教室にまでは響かない。昼の空に灰が降る。
「あたし、黙っていれば美人なんだってさ」
椎那の筋の通った鼻先はツンと、ふてぶてしく空を突き上げている。
「へえ」
林はもくもくと帰り支度をしている。
「あんたどう思う?」
「どうって?」
「あたしがずっと黙ってたら、あんたどうする?」
「・・・・・・勘弁してよ 気まずいよ」
「そう? あたしを連れ歩いて、優越感に浸ってみたくないの?」
「優越感って、なんで?」
ふんふん、と鼻歌を歌いながら椎名は林の支度が終わるのを待った。
二人は一緒に学校を出て、昼過ぎにやっと開店したばかりの電気屋の前のあぜ道を通り過ぎる。周囲には静けさに沈んだ緑色の田園が広がっている。
電気屋の老人が店から出てきて、見たかい? と背後から林に訊く。
「あ、電気じじい」
林が嬉しそうに振り返る。電気じじいは空を見上げながらしみじみ言う。
「さっきまたドローンが狂って、空に昇っていたんだよ ああ、もったいない 規定高度を超えたせいで爆発さ ざっと150だな」
「150って?」
「うちの儲け 150万円 ちょうど発注があってね アーティストというのは、金持ち相手の商売で、自己中のいけ好かない世間知らずのナルシスト連中と思ってたが、案外、しがない個人経営者の味方なのかもしれん」
「空の高さかと思った」
椎那が空を見上げながらつぶやく。胸焼けするほど濃い青空に、吐き捨てたガムみたいな雲がところどこにびたっと張り付いている。
「きみら、部活は?」
と、電気じじいが気の良い地域住人を装って訊く。
薄く生えたひげを分厚い手のひらで撫でてているけれど、その所作は美しくもなければ特筆するほど醜くもなかった。
「あんたに関係ある?」そう言いながら流れる黒髪を耳にかける椎名の所作の美しさは特筆に値する。吹き抜ける風の精霊も喜んで小躍り。
「今から遊びに行くの FHにも行くつもりなのよ」
「FHってなんだい?」
電気じじいが間の抜けた顔で訊く。少なくとも椎那の目にはそう映った。しかし、林も初めて聞く言葉だった。
「あんたには教えない 林にはあとで教えてあげる、バスの中でね」
・・・・・・ああ、おとなしく店に戻っていく電気じじいの静かな背中!
▽バスの中
「・・・・・・それじゃあ、おさらいね 花粉的音楽っていうのは、あくまで伝達手段の一つに過ぎないわけ よく言われることだけど、音のない音楽だってあるのよ 構成的じゃない、破壊的な音楽ね ・・・・・・昔はFHがその発信源だったんだよ、今じゃ老人たちがはびこってて見る影もないけど 当然よね、孤独な人間が集まってくる場所らしいから ・・・・・・FHは、ほんとうは、若者のための場所だったのよ」
椎那の説明を隣で聞いている林は、すでにバスに乗り込んでいる。一番うしろの長椅子に座る二人の他に、乗客はいなかった。
流されるまま連れられて来た林だったけれど、いつのまにか、付き合うだけ付き合おうという前向きな気持ちになっていた。口では練習練習と言っていたものの、内心、練習ばかりの毎日にうんざりする気持もあったのだろう。
昨日は路上でうとうとしながら物乞いをしていた髭面の男だったが、今日は立ち上がって走行中のバスを追いかけてきて、並走しながらバンバンとバスの車体を殴ってくる。なにをしたかったのかはわからない。結果として生じたのは、バス車内の僅かな左右の揺れ、運転手がやかましく鳴らすクラクションの音、あとは椎那のため息。
経験の浅そうな若い運転手だったけれど、左カーブのときに壁に押し付けるようなハンドリングを魅せ、物乞いの男をこそぎ落とした。たった二人の乗客の拍手が車内にこだました。
妨害行為のせいでバスは5分以上の遅れが出ていて、それ以上の遅れは減点対象だった。
そのためだろう、本来なら減速してこっそり通り過ぎるべき、食料廃棄場周辺の荒野地帯にさしかかってバスはむしろ加速した。案の定、異常繁殖したカラスたちが荒野から飛び立ち、やかましく音を立てて走行するバスめがけて襲いかかってきた。
とがった爪を車体に引っ掛けて体を固定し、くちばしで激しく窓をつついてくる。物乞いの素手の横殴りとは比べ物にならない速度、勢い、鋭さ。いつ窓が割れるかわからない。
なかでも獰猛そうな一羽が、ぐりぐりと、薄く開かれた窓から強引に中に入り込もうとしていた。すでに身体の半分くらいを車内に潜り込ませている。
いまさら徐行しても遅い。こうなってしまった以上、バスは一刻も早くこのカラスたちから身を引きはがすために加速するしかなく、車内の安定は一層悪くなる。椎那はふらつきながら立ち上がると、ケースから取り出した空色のベースを持って侵入されつつある窓に向かった。
カラスは巨大なくちばしの間からよだれを垂らしながら、狂ったように頭を振っている。椎那はカーカーと鳴くカラスの頭に、ベースのヘッドをぐりぐり押し付けた。窓の外に押し返されそうになって、カラスは、自分を排斥しようとする楽器に何度もかじりついて抵抗したけれど、最後には生ゴミの匂いの充満する荒野へと突き戻された。明らかにむしゃくしゃしたようすで、カラスは強く羽ばたいて高く上昇、そのまま姿が見えなくなった。
それから少しすると、バスの周りにとりついていた数百羽のカラスは、その大半が剥がれていた。窓の外側にはカラスの身体から分泌されたさまざまな液体や、抜け落ちた羽がこびりつき、くちばしでつつかれた場所は傷ついて白くくすみ、ところどころひびが入っている。
奇跡的にも、中にいる人間たちに怪我はなかった。
バスは街に向かって爆走している。
「怖かったね?」座席に戻った椎那が落ち着いた声でそう言った。「あたしのベースさばき見た?」
林は首を横に振る。
「・・・・・・怖すぎて見てない」
「あっそ。あんた、カラス嫌い?」
「あんまり好きじゃない でも嫌いではないよ、だって、カラスは何も悪くないから ぼくのせいなんだ、ぼくが勝手にあの真っ黒な見た目を怖がってるだけで・・・・・・ あの尖ったくちばしで脳みそをほじくられたらどうしようって、恐ろしい想像をしてしまうんだ」
「あんたはモヒカンだから大丈夫でしょ カラスだって、やりやすそうな禿げてる人から狙うよ」
「でもサイドは刈り込んでるし・・・・・・」
「あたしもね、カラスは嫌い でも、あんたの言う嫌いとはちょっと違うかも」椎那はベースをケースにしまいながら言う。「あたしの両親さ、魔術実験の最中に事故で死んじゃったんだよね 二人まとめて」
バスの運転手が気を利かせて特別に音楽を流した。自身の減点を気にして無茶をして、うら若い二人の高校生を怖がらせてしまったことへの負い目を感じての行動だったのかもしれない。そんな親切心がザ・フーの「My Generation」となって響き出す。
「お気の毒に ・・・・・・でも、それがカラスとなんの関係があるの?」
「なんの関係って、あんた、知らないの? 黒魔術はカラスの血液や羽を使った有機化学なのよ」
科学部を兼部する林はもう少し詳しくその最新の学問について聞いてみたかった。でも林は質問を控えた。椎那から言ってこない限り、詳しく尋ねるべきではないと思ったからだった。
その代わり「ぼくも似たような経験があるよ」と言ってみた。錯覚かもしれないけれど、少しだけ落ち込んでいるように見える椎那を慰めるというか、寄り添えるかもしれないという気持から。
「ぼくの両親も亡くなってるんだ 頭のおかしくなったサイボーグがいてね、身体を軽トラックに改造して国道を爆走してたんだよ ・・・・・・両親はワンボックスカーの中で、ただ信号を待ってただけだったのに、気づいたらぺしゃんこだった」
それを聞いた椎名は内心「やっぱり」と思っていた。
やっぱり、自分と同じように家族がいないんだ。孤独なんだ、と。
遠目で見たときから、なんとなくそんな気がしていたのだった。入部のときの自己紹介の時から、もう分かっていた。根拠は何もなかったけれど、感じていたさみしげな雰囲気は間違いじゃなかった。
「あたしたち似たもの同士じゃん!」
椎那が嬉しそうに言う。
「・・・・・・どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「そう?」
椎名は目を輝かせている。
何も気づいていない林は窓に目を向けて、空き地に捨てられた愛玩ロボットたちが互いに手を繋いでしゃがみ込み、少しでも電力消費を減らすためにじっとしているようすを眺めた。もし何も知らない観光客がその様子を見かけたら、機械が信仰に目覚めたと勘違いしたことだろう。
そのうちの一体と目が合う。少女の形をしたガイノイドは林に金属の中指を立てた。
「おー、あいつは見込みあるね」
椎那が林の肩越しに言った。
▽街
FHに行く前に、楽器屋でカラスにかじられたベースを綺麗することになった。改めて点検してみると、弦もへろへろで交換が必要だとわかった。
「無闇やたらにベースで人を殴るからだよ あんな乱暴な使い方じゃ、ふてくされて音を出してくれなくなるのは当然だね・・・・・・」
「なんか言った?」
二人が通り過ぎたドラッグストアのガラス壁の動画広告が、購買意欲発揚ソングを歌っている。思わず歌い出したくなってしまうくらい陽気な気分になれる、おいしい缶チューハイだということを伝えたいようす。あまりに大音量なので、歩行者たちは耳を塞いで、走って通り過ぎていた。
「背中とか肩とかさ、硬そうなところには当ててないからね 楽器想いなの」
「じゃあ、お尻とかに当ててるの?」
「まあね だけど音が悪いの 考えてみたら世の中ってそういうものじゃない? あっちを立てるとこっちが立たず、って感じ あっちの穴に指を突っ込んでふさぐと、こっちにべつの穴があく、みたいなね あ、着いた」
弦交換とヘッド修理の依頼を受けた楽器屋の店員が驚いたのは、そのベースがスカイブルーに塗装されていたからだった。水色は店員のパーソナルカラー。しかも彼の名前は「空」。仮想現実では自らを「スカイ」と自称している。誰しも知っている英単語、だから仮想現実では大勢がスカイを名乗っている。無数のスカイたちに血縁関係や連帯感、あるいは競争心も無し。無関係。たった一人のベスト・オブ・ベストの選ばれしスカイを決めようとしない寛容さを「空のように広い心の持ち主に育ってほしい」という命名者の願いが叶ったものとみることもできるかもしれない。
「普段はどのような用途でお使いですか?」
スカイの声は爽やなシトラス。
「音楽以外にある?」
「どのような音楽でしょう? 痛みが激しいので、用途に合わせた交換が必要かと思いまして」
「花粉系」
少し離れたところで、林は展示されたギターと自分のモヒカンを交互に触っている。その髪はくすんだ虹色。小さな頭によく似合っている。
「ジャンルのことはよくわからないけど、過激だから頑丈なものがいいかもね・・・・・・」
林が半ば独り言のように言う。楽器の町医者としての、スカイの問診は続く。
「・・・・・・それで、弦の種類はどうしましょうか?」
「心臓に斧を振り下ろすような音にしたいから できるだけ太っとくして」
「いまより弦が固くなりますが それでも大丈夫?」
「あるんで、力は」
「ほかには、ええと、ロングスケールのラウンドワウンドにして、素材はどうします?」
「ゴールド」
「失礼ですが、予算は?」
「・・・・・・正気? あたしたちみたいな若者に、いったいどんな予算があるって思うの? それとも、年金でももらっているように見えましたかしら?」
あはは、と椎那が林に笑いかける。林もにへへと笑う。その笑い方のルーティン性から、共通のジョークとしてそれが二人のあいだ(もしくは学内全体で)これまで何度も繰り返されてきたということを教えていた。
スカイはどう対応するべきか迷っている。内輪ネタに意識は向いていない。ひとえに、若者に理解のない大人になりたくなかった。が、一端の店員にすぎない彼に半額サービス祭を独断で開催してあげられる権力はない。ポケットマネーでプレゼント? そもそも先立つマネーがない。給料のほぼ全ては給料日に一ヶ月分の新譜と交換される。それは不可避の月額契約。スカイにどうにかできる衝動ではなかった。
「ねえ」
椎那が詰める。繊細なパーツが繊細に配置された顔のなかの眉間に繊細なシワが刻まれている。その繊細な断崖におあつらえむけに咲く清らかな山百合に手を伸ばし、足を滑らせた人々の屍が、谷底の闇の中で目を閉じている。両手は安らかに胸の前でクロス。
「いい? あんたは決定的な瞬間に立ち会ってるってこと、理解してよ あんたがいなかったら、今のあたしはいないわ、って将来言ってあげる あたしが有名になったら、インタビューとかでね そうすれば、あたしのおかげであんた、音楽史に載るかも そんなチャンスなかなか転がってないよ」そう言って、椎那は林に視線を向ける。「だよね こんなチャンスほかにないよね?」
急に訊かれた林はしどろもどろに、
「ええと、・・・・・・たぶん、金輪際ないんじゃないかな ・・・・・・わかんないけど」
最後の曖昧な言葉に不満を感じながらも椎那はうなずく。それからだめ押しの一言。
「今の生活に満足してるなら、話は別だけどね 毎晩寝る前は、ネットで自分が入るお墓の検索?」
今の生活に満足しているか、そう言われてスカイはめまいを感じた。
スカイは思い出し、数え上げようとした。自分が満足した瞬間を。でも、霧のように散り散りになって掴み取れず、人間の記憶力のあいまいさのせいだね、などと自分自身に言い訳してきた日々がすでにあった。何度も思い出そうとしてきた。思い出せる思い出が、あると信じてきた。
椎那の鋭い視線の前で、スカイは自分が期待していたほど満たされてはいなかったことを思い知らされる。それはつらい認識だった。
結局、椎那のベースには家系極太麺のような黄金の太弦が張られた。会計を改ざんする決意を固めたスカイの手によって。
ぼろぼろだったヘッドはのこぎりで一度切り落とされ、新しいものにすげ替えられた。
▽楽器屋の店前
椎那がSNSに投稿した写真から割り当てた楽器屋の、その出入り口の外で待ち構えて__といっても、隠しきれない自らの肥満体を電信柱の影に重ねているだけの状態で立っていたのが、椎那の弟のテルオだった。
小学校で1/2成人式を終え、なにかしら人生に対する自負を獲得したかに見えるテルオが混濁の人混みの中にいるのはまさに、椎那に対する情熱がゆえだった。
ハプスブルク家の悲劇をを誰も教えなかったことが幸いしているかもしれない、無邪気に燃える胸の奥の炎。歴史を教えようとする人も、教わろうとする人も、極端に少なくなったこの時代では仕方のないことだが、代わりにあいた脳のスペースをテルオは空洞のままにしている。そのほうが、風通しが良くて涼しいからだった。
「あんた、そんなところでなにしてんの?」
テルオは椎那に背後をとられていた。爪を噛むのに夢中になっていたせいで気づかなかった。
「おねえ、おれ、心配だっただ」
「あたしはあんたが心配だよ どうやってここまできたの? 一人で帰れる?」
「帰らない、おれ」
「帰りなさいよ」
椎那はテルオの頬を指で挟んで、タコの口にする。テルオは照れながら「やめて」と言ってその手を振り払う。
「おれ、おねえが知らない男と歩いているのを見ただ」
「林のこと? あたしの大事な友達 仲良くなったのは最近だけどね」
テルオの表情が憎しみに歪む。
仮に、先日(ローンという悪霊が取り憑いているとはいえ、素敵な)マイホームに越してきたばかりの父母息子の、幸せな3人家族がいたとする。そこへ、宅配業者を装った男がドアを蹴破り押し入ってくる。男は職人のような技術と天災のような勢いで、30代後半の母の乳房を牛刀で削ぎ落としながらのレイプで圧殺、6歳の息子の泣き叫ぶ口に血の滴る脂肪を押し込みながら全身の皮をフルーツナイフで剥いた。そして、二つの亡骸の横たわるマイホームに放火。会社に掛かってきた電話を受けて父が急いで家に戻ると、警察車両が灰になったかつての家庭を囲うように駐車してあって、そのとき、ただ一人この世にとり残されたことを知った父親が浮かべる複雑な表情。青銅のように冷徹な空の下でかじかむ父親の表情のように、テルオの表情もまた歪む。
「いやだいやだ」
テルオが心の声をはっきり口にした。
「帰りなよ 今からあたしたちが行くところは、あんたにはまだ早いの」
「じゃあ、遅れて行くだ」
「ばか 一時間とか二時間じゃ足りない 5年はかかるわ」
テルオの憎悪が、絶望へと遷移。むしろ表情筋が驚いている。なんだこの筋収縮の要請は!?
この瞬間に限って、テルオはまごうことなき叙情詩人だった。ただし語彙が足りないために、いつまでたっても詩作品が出力されない。
「どこに行くつもり? 行き先を変えたらどう?」
林が椎那に尋ねる。テルオが唾を吐く。椎那がテルオの頭をはたく。うつろな音が、午後3時14分を告げる。
「うわ、なんの音?」
初めて耳にした隙間の多い頭蓋骨の反響音に、林が驚きの声を上げる。
かつて一人の教師がいた。彼女もまた、人生に対する態度があまりに悪いテルオの頭を衝動的にひっぱたいたことがあった。そのとき教室内に鳴り渡った恐ろしい空洞の音に、幼い同級生たちは手を叩いて喜んでいたけれど、奏でた当の教師にはトラウマが植え付けられた。以降、気安く他人の頭を叩くことができなくなったという。
「テルオ、あたし言ったよね、林は私にとって大事なの その人に唾を吐くってことはあんた、あたしにつばを吐いたのと同じってことだよ あたしに唾吐いて、ただで済むと思ってんの? どんなことになるか、想像できなかった? テルオ、あんた今、相当難しい立場に立ってるってこと自覚してる?」
テルオに自覚はなかったが、椎那の怒りはひりひりと、肌を炙られるように感じ取っていた。絶望の感情が、今度は悲しみへ遷移。悲しみはテルオの眼球の裏でせっせと涙を補充している。すぐにほろほろと涙が流れだした。それを尻目に、椎那はテルオに背を向けて立ち去ろうとしている。
「・・・・・・泣いてるよ?」
林が見たままを言った。まるでテルオが両目から出血しているかのような動揺をみせて。それでも椎那は林の腕を引いて、足を止めようとしない。テルオはとぼとぼ追いかけ始めるけれど椎那に睨まれて立ちすくむ。
そのまま椎那とテルオの背中が見えなくなると、空に暗い雲がかかり、太陽はそのへんの空き家か、もしくは排水溝へ逃げ去ってしまったようだった。憂鬱に汚染された灰色の空気。
カラスがくちばしで、ゴミ捨て場の金属網をねじまげる音がしているが、今はテルオの泣き声のほうが大きい。
金網を食い破って外に出てきたカラスは産廃を食べすぎたせいで急成長の巨体、テルオの頭上を大きく旋回して、テルオの肩の上に着地。ハロウィンのかぼちゃくらいの大きさで、傍目には泣く子を慰めようとしているように見えるが、カラスには打算があった。
「泣き虫なボク かわいそうに ひどい目にあったんだね そんなボクの願いを、一つだけ叶えてやると言ったらどうする? 代わりに、ボクの願いが叶ったら、次に私の願いを聞いてはくれまいか」
と嗄れ声で言った。
「なんでお前の願いを聞かなくちゃいけないだ」
「え?」
「なんでお前の願いを聞かなくちゃいけないだ」
「それが『互酬性』というものだからだよ、ボク 人から何かをしてもらったら、そのお返しをしたくなるものなのだ」
「なんでお前の願いを聞かなくちゃいけないだ」
「一方的に受け取るだけなのは間違っているだろう、ボク? 君一人では成し遂げられないことを成し遂げるための力になろう 私一人では成し遂げられないことを成し遂げるための力になってくれまいか」
「それはいやだ でも、おれの願いは叶えてほしいだ」
「願いを言ってみたまえ」
「おねえの太ももに挟まれたいだ おねえの尻につぶされたいだ おねえのおっぱいをひっぱりたいだ おねえのお腹にのしかかりたいだ おねえの・・・・・・」
「やめたまえ 私は、一つ、と言ったはずだが?」
「一つじゃ足りないだ いやだ」
「考えてみたまえ、世の中には様々な境遇の子どもがいる 君より不幸な子供も大勢いるのだよ それなのに、いやだいやだ、とワガママばかり言っていていいのかね? 恥ずかしくないのかね?」
「おれはおれだ いやなもんはいやだ ほしいもんはほしいだ」
「・・・・・・一つだけだ 一つを叶えたら、私の願いも一つ叶えると約束したまえ」
「なんでお前の願いをきかなくちゃいけないだ」
「助けあおうじゃないか、ボク」
「なんでお前を助けなくちゃいけないだ」
「・・・・・・私の提案を拒むというのかね?」
「なんでお前の願いをきかなくちゃいけないだ」
「・・・・・・話にならん お前のようなボクは、こちらから願い下げさ」
時間の無駄を悟ったカラスは、その言葉を最後に力強くはばたいて雲のかなたへ。行こうとしたが、とっさにテルオに脚を掴まれた。見るも無惨な地の重力にカラスを縛り付け「逃げちゃダメだ」と、テルオがカラスにささやく。
カラスを片手に持ったまま「おねえ」と、人混みの中に消えてしまった椎那に呼びかけるようにテルオはつぶやいた。
そのつぶやきは初春の風をいくらか生臭くした。誰も気づかなかったけれど。
カラスが羽を振り回して暴れるので、テルオはカラスを一度アスファルトに振り下ろして脳震盪を与えて黙らせた。
▽路地
街で最も不気味な路地を歩いていけば、いつもかならずFHに通じている。
各都道府県の、蜘蛛の巣が張られた生ゴミ臭い路地の先にあるこの疑似フランチャイズには、行こうと思い立てば誰にでも行くことができる。でも、行こうと思い立つまでに多少の生活上の辛抱が必要だったりする。
というのもふつう、順風満帆な精神は裏路地には目もくれないから。
意地悪な分かれ道はなく(FHを目指す者にこれ以上意地悪してどうしようというのか?)、壁沿いに歩けば眼窩に薔薇の花を活けているような奇矯な御婦人でも、簡単にFHにたどり着ける。
チュッと小さくネズミが鳴いたら、青いポリバケツが倒れて食べ残しのゴミが道に溢れ、一筋の糸を頼りに大蜘蛛が垂直に下降、排水口の柵の隙間から血の混じった薄ピンク色の蒸気が立ち上る。耳を澄ますと女の怒気を含んだ低い声が聞こえてくるが、これは椎那の声だった。
「だから、そんなの関係ないじゃん」
「でも、家族は大事にしないとだめだよ」
「あんたは、あいつのことを知らないからそういうことが言えるの あいつ、ほんとに最低なのよ あいつこそ、あたしを姉として見てない わかる? これ以上言わせないでよ」
「・・・・・・でも泣いてたよ」
「あっそ、じゃああんたは、もしヒトラーが眼の前で泣いてたら、ああかわいそうって言って許してあげるわけ? 泣いてさえすれば、どんなクズでもあんたの慈悲を受けることができんの?」
「ぼくはヒトラーのことよく知らないし・・・・・・ それに、でもきみの弟はヒトラーじゃないよ」
「お願い、あたしに弟なんていないのよ!!」
椎名の声はさらに大きくなる。下水の足湯に浸かりながら交尾していたドブネズミ二匹も、さすがにムードがなくなって、しずしずと解散せざるをえなかった。
「あたしが泣かないからでしょ? もしあたしが泣いたらどうなると思う? もしあんたがあたしを泣かせたら? 覚えといて、そのときはもうすべてが手遅れ!」
「・・・・・・ぼくはただ ・・・・・・ぼくにはもう家族がいないから、きみにはたった一人の弟を大事にしてほしいんだよ」
「さっきも言ったけど、それがつらいの 絶対に一生愛せない家族が存在しているってことがね それがむしろ孤独を深く、暗く、出口のないものにするのよ ・・・・・・あんたにはそれが分からないの?」
「わからないよ 家族は家族だよ・・・・・・」
「そうね、じゃああんたは腑抜けよ、あたしのことまっすぐ見ようともしない 目をそらしてばっかりで! 根性なし! ヘタレガキ!」
さっき解散したドブネズミのうちの雌の一匹が振り向いて、心配そうに言い争いをする二人の高校生を見つめている。その真っ黒の瞳は眼前の不安を、崩壊の兆しを、人間の濁った眼球より鮮明に映し出している。
「・・・・・・ぼくは知ってるんだ 部長の弁当に毒を入れたのはきみなんでしょ? ・・・・・・見たんだよ、練習の合間にきみが部屋を抜け出すところを それはきっと、きみの心が孤独で不安だからなんでしょ? 心の不安が、きみに変なことをさせるんだよ・・・・・・」
「変なこと?」椎那が憎々しげに言う。そして、次の言葉は震えていた。「あんたとはわかりあえると思ったのに」
椎那は林を、路地の壁に突き飛ばした。思わぬことに壁はビスケットのように簡単に砕け、林は壁の奥のバスタブに倒れ込む。テレビの音が林の耳にひらりと忍び込んで、人の気配がある。家は尋常じゃないほど揺れていた。壁の崩壊音を聞きつけた住人一家はふらつきながら、テレビ前の卓から足音を鳴らして林のいるバスルームに向かってくる。
住人に見つかる前に慌ててバスタブから起き上がった。
右手にはFHがある。道の先のポスト・ヒプナゴジック様式の建物は、ハグを待ち受ける寂しがり屋のように両開きの扉を開けている。椎名の小さな背中がそこへ吸い込まれていくのが見えた。椎那は一度も振り返らない。
左手には、路地の出口が見える。白々しい光と喧騒。
林はその表面的な明かりと人混みを目指して走り出した。壁を壊された住人たちが林の木屑まみれの背中に罵声を浴びせる。住人の視界から消えたところで、林は息を切らせて壁にへたり込んだ。
急な出来事に林の頭はまだ追いついていなかった。しかし心が締め付けられるような感覚をはっきり感じていた。それが息切れのせいだけでないことにも気づいていた。
そのとき、天啓か何かのように空から何かが降ってきた。
白と黒が混ざりあい、日光を浴びて独特の光沢を発するその一滴のしずくは、間一髪、林のすぐ隣の黄色い花を咲かせた雑草の上に落ちた。途端、花は落し紙のように茶色くしぼんだ。
林が発射元の空を見上げると、大きなカラスが飛んでいるのが見えた。さらにその細い脚を両手で掴んで、ぶら下がっている子供の姿がある。子どもはカラスをプライベートジェット代わりにして、自身を運ばせていた。
林の隣に落ちた空からのしずくは、カラスの尻の穴からすっ、と垂れてきたものだった。およそ150mほどの高さから。しかし林はその距離から、はっきりと上空のテルオの下卑た笑みを見たのだった。
カラスが羽ばたくたびにつむじ風が起こる。カラスはあっという間にテルオをFHに運ぶだろう。
へたりこんでいた林は反射的に立ち上がった。不思議と、身体の節々に力が戻ってくるのを感じていた。振り返った路地は、林のための道であるかのように閉ざされる気配もなく、ただまっすぐにFHに通じている。
壁を壊してしまった家の住人たちに見つからないように、足音を殺しながら走った。不可能に思える芸当も、いまの林にとってはそう難しいことではなかった。住人たちはテレビに釘付けで、ぽりぽりと首を掻いたり、くず餅を食べたりしていて林に気づかない。
FHにたどり着いたときには両開きのドアから、選抜漏れした老人が次々に外に放り出されているところだった。
「何してるんですか?」
林が入り口で老人を外へ放り出している若者たちに声をかけた。
「この人たちがいるせいで、中に入れないんですよ まずは取り崩さないと ・・・・・・あ、きみ、いい髪型だね」
若者たちは、変形し、薄いせんべいのようになった壁老人たちを次々に外へ放り出している。林はその中を、抜け駆けするように一人くぐり抜けていく。
そのとき初めて、どこからともなく聞こえていた無音のリズムが、この薄暗い建物の中から聞こえてきていたことに気づいた。
▽FH
林が到着する10分前に、椎那はFHに到着していた。
FHの老人たちは椎那がベーシストだとわかると、椎那とのチームプレイを望んだ。年季の入った音楽家たちは、日々のマンネリの中で失っていた自発的に音楽する気力を、ふいに取り戻したのだった。
競争は苛烈なものとなった。敗北して、金平糖のようなカチコチの涙を流す者もいた。誰も見向きもしないし終いには、もっと静かに泣け! と怒られる始末。たしかに涙がタイルの床に落ちてうるさかったが、怒鳴るほどではない。
選抜が終わると、椎那と選抜メンバーはステージに上った。
そのとき、半分開かれた薔薇窓から、カラスにしがみついたテルオが音もなく不法侵入してきた。
敗残者の骸の山の上に舞い降りると、カラスは一人の斃れた老人にささやく。
「かわいそうに ひどい目にあったんだね きみの願いを、一つだけ叶えてやると言ったらどうする? 代わりにきみの願いが叶ったら、次に私の願いを聞いてはくれまいか」
老人は薄ぼんやりした夢見顔で、ぶつぶつと願いを言った。
「わしは、世間と若者との間の壁になりたい。若者が傷つかないように・・・・・・」
カラスは一人一人の願いを聞いて、自分の願いを大量に叶えようと目論んでいたのだけれど、最初の老人の願いが他の老人たちの願いを飲み込んでしまった。
その老人はその場にいる他の老人たちと団結して一枚の壁になることを望んだのだ。
ステージ上の椎那たちを取り囲むように、薄い肉壁がせり上がっていく。カラスは呪文を唱えながら天井のすぐ下、シャンデリアの周りを飛び回っている。
テルオにとってカラスはFHに来るまでの脚というか翼に過ぎなかったため、すでに手放していた。
テルオの目的はただ一つ、椎那の独占である。
椎那を誰かに所有されることも、人びとの視線にされされることも、テルオには許せなかった。椎那はテルオにとって最も身近な存在であって、そのことを自身の特権と考えていた。
でも、それを脅かす可能性が世の中には存在する。
つまり、椎那が別の家族を所有してしまうこと。そうなれば、テルオは今以上のお払い箱の扱いを受けることになるだろう。
したがって今、椎那がやっていることはテルオにとって最悪だった。
暇と機会さえあれば椎那のことを性的に眺め続けていたテルオには分かる。
椎那が世間の注目を集める機会を得てしまったら、世の中の腹をすかせた薄汚い獣共に気づかれてしまう。そうなれば獣共は、自分の姉を狙って休みなく襲い掛かってくるだろう。
そして、椎那の性格上、そのような状況が訪ればむしろ楽しみ、助長するような動きさえするだろうことも、テルオには分かっていた。だからこそ、直ちに演奏を止めなくてはならない。この、無駄な演奏を。
早くしなければ、すでに椎那たちの演奏に浮かれた一部の壁がぽろぽろと崩壊を始め、その穴から音のない音楽が世間に向けて流れ出し始めている。
そして、音のないリズムにつられて、路地裏に縁の無い人びとでさえ集まりだしている。いずれ老人壁は内外からの破壊に見舞われるだろう。
毒だ、とテルオは思う。人びとを狂わせる毒、おれをもっと孤独にして苦しめる毒。
椎那を妨害するのは難しいけれど、その周りの選抜の老人を妨害するだけならなんとかなる。
その一心でテルオはステージ下までたどり着くと、勢いをつけてステージの乗り上がろうとした。水族館のアシカのように。しかし上り切る前にヒレを掴まれて引き戻された。
汗だくの林が、テルオを背後から羽交い締めにしていた。
▽バーカウンター
バーカウンターのスツールに腰を下ろして、林は演奏を終えた椎那を待っていた。
ベースを背負った椎那は、電気じじいからのしつこい賛辞を振り切って、ソーダを飲んでいる林に近づいていく。
椎那が声をかけようとすると、それより先に林は振り返って「ごめん」と一言謝った。
椎那は「なにが?」と、少し戸惑いながらわざとらしくそう言って、林の隣に腰掛ける。
「あんたのモヒカンが見えたよ、ステージの上から」
「最高の演奏だった・・・・・・」
「ちゃんと見てた?」
「うん、なんか、生きててよかったと思った」それは林の本心だったけれど、口に出すと嘘くさく聞こえた。慌てて「大げさかな?」と言ってごまかした。
でも、椎那は林の目をじっと見つめて、
「そう?」
と言った。
椎那は自動式のバーテンダーにコーラを注文した。「マッカランを数滴垂らして」と椎那が言うと、バーカウンター額の白毫のような赤ランプが点灯して、どこかでエラーが発生しているようすだったけれど、コーラは問題なく出てきた。
「なんか、バグってる?」椎那は首を傾げながら恐る恐る出てきたコーラ飲んだ。「味はいつも通りみたい」
林はドキドキしながら「へえ、なんだろう」と言った。椎那はニコっと笑って、
「あたしも生きててよかったって思えるくらい最高の気分だった 次はあんたも一緒にステージに上ってよ」
そう言って林の手を握る。
「練習しておくよ」
椎那がステージを降りたあと、一部の観客はそそくさとFHを出て行ってしまった。しかし残っている人もいて、その人たちは別のバンドの演奏のあいだも楽しげに身体を揺らしている。
音があり、懐古的でところどころ退屈とはいえ、全体的に心の温まる優良な演奏だった。
「テルオもいたでしょ」椎那が言う。「どうやって入り込んだか知らないけど まあ、一人で考えて行動できたんなら悪くないんじゃない?」
林に言われるままバーカウンターの裏に隠れていたテルオは、こっそり喜んだ。
「テルオくんは、もっときみと仲良くなりたいみたいだよ」
「それは無理ね あいつとは合わないの」
「でも・・・・・・」
「あんた、どうしてそんなにテルオが気になるの?」
「え?」
「あんたが気になるのはテルオ? それともあたし?」
林の心臓が高鳴る。さっきまで椎那が作り出していたリズムの余韻がまだ身体に残っている。
林はテルオのために、椎那との仲を取り持つつもりでいた。だから、バーカウンターの裏にテルオを隠して、椎那の本心を引き出そうと考えていた。本人を目に前にしたら言えなくなってしまう、家族なら当然持っているであろう愛を再確認したいと思ったのだった。
しかし今、林は全く想定外の状況に置かれていた。
これ以上テルオの肩を持とうとすれば、さっきの裏路地のように椎那はまた不機嫌になるだろう。そしてもう二度と関係は修復できないかもしれない。
でもここでテルオの肩を持たなければ、林はテルオに不必要な屈辱を味合わせることになる。わざわざバーカウンターの裏に隠れさせた上で、裏切ることになる。
そのとき、林は学校の前のあぜ道で椎那が言った言葉を思い出した。
「言いたいことを言いたい時に言うの」
林はその後の言葉も思い出していた。
言いたいことを言いたい時に言わないことが、ぼくのいいところだと椎那は言った。なるほど、あれはきっと、皮肉だったのだ。
林は、心を冷たくしながら、しかしより心が熱く反応する方に向かって、椎那の問いに答えた。
▽その後、FH
FHからひとけがなくなると、壁と化した老人たちもその役目を終えて個人にばらけ始めた。長い結合のために身体が歪に変形していた老人もいたけれど、数日あればもとに戻るだろう。
ほがらかに会話しながら、出入り口への列を作っている。
やがて、バーカウンターから一人の少年が姿を現す。せっかく成人までの道のりを1/2も進んできたけれど、もうあと一歩も進めないくらい心は腐れていた。
いわゆる愛と恋の違いについて考えようとしたけれど、狂気の深淵が見えてすぐに止めた。しかしもはや自分には、そのどちらとも無縁であるという事実はかろうじて掴み取ったらしい。
ぽろぽろと流れていた涙は、蛇口を絞ったように急に止まった。叙情的な涙の蓄えがテルオにはもうなかったし、今後補充されることもないだろう。
願いを叶えてあげたにも関わらず、願った本人を見失い、見返りの徴収に失敗したカラスが、不満を呟きながら天井のシャンデリアから飛び立った。地上のテルオが目に入ると、破れかぶれの気分であざ笑いながら、開かれた薔薇窓から月明かりの眩しい夜の中へ消えていく。
テルオは床に落ちていた、どこともわからない部位の老人壁の破片をカラスに向かって投げつけた。破片は薔薇窓にすら届くことなく放物線を描いて地面に落ちていき、ステージの上のシンバルにぶつかった。
うるさい音だけが鳴った。
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