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多様性という言葉に感じる違和感

多様性とはそもそもなんだ?

   SNSを開くとよく目にする言葉、多様性。多くの活動家や主義を掲げる人々が重要なテーマとしているイメージが私にはある。それが悪だとは言わないしむしろ、色々なことが認められる社会は素晴らしいと思う。しかし、この言葉はあまりにも広義的ではないだろうか?

意味から見る多様性

   多様性を単純に翻訳すると「diversity」となる。
高千穂大学高千穂学会出版の高千穂論叢にある
中村豊氏の「ダイバーシティ&インクルージョンの基本概念・歴史的変遷および意義
から引用させて頂くと


「ダイバーシティ(Diversity)は「多様性、相違点、多種多様性」という意味であり、最もシンプルな表現にすると「人々の間の違い」(Difference betweenpeople)ということになる。」

https://takachiho.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=125&item_no=1&page_id=13&block_id=

とある。

  つまりは、多様性とは目指す目標というより
あるがままの性質を指す言葉とも取れるわけだ。

多様性を推奨するとは

   そして私が今回言いたいのはこれだ。
   広義的な言葉である多様性を本当に全ての意味で捉えるなら多様性がある状態以外を押し付ける、言うなれば多様性以外は認めないというのは、真に多様性を重視していると言えるのだろうか?
   さらに言うならば「差別主義者と戦い多様性を得る」という行為は多様性という言葉に則った考え方なのだろうか?

多様性という言葉が隠してしまうもの

   こうして考えると差別という言葉も誤用されているように感じられないだろうか?差を分けるという字のまま読めばそこに悪はないと私は感じるのだ。差を侮蔑することは確かに良いとは言えないだろう。しかし差別をやめ多様性を認めろと言うことは多様性を重視した発言とは言えないし、人には足りないところは手を取り合って生きる知恵があるはずなのに、相手を多様性に押し込めて必要な助けを得られないようにしてしまうことも考えられる。

負けていなければ多様性に頼れない

   既にある状態をさらに求めることはない。
   言うなれば自分が多様性という状態を認められていないと感じなければ多様性を求めることは無いのではないか?その意識の果ては被害者意識の暴走ではなかろうか?
ここでひとつ主張をしておくのだかまずもって全ての人には違いがあるというのが多様性である。
これが私の多様性に対するスタンスなのだが、この言葉が文字の上では現行の使われ方と矛盾していると指摘されることも理解している。

多様性に優劣を持ち込む

   全能者のパラドックスという話がある。全能の者が居たとしてその人が自分には持ち上げられない石を作ることが出来るかという有名な話だ。
石が作れなくても持ち上げられなくても全能は崩れる。完璧とは空想上にしか存在しないという良い例えだ。故に人は完全な自立は出来ないし凹んだ点と尖った点を持つ。だが昨今誤解されていると再三私が言う多様性においては全てを一律で認めろという。
   すると差という物は無視しなければならない。だがそれでは道理が通らないことを理解していただけるだろうか?単純な土の塊の高低差なら埋めるなり、ならすなりをすればいいが人とはそうもいかない、身体の作りや愛を向ける対象はたまた生まれた国など様々な全体的に変わらない差がある。それを無視した机上の空論が今の多様性と呼称されるナニかと私は考えるのだ。

多様性を認めるために

   冒頭でも伝えたが、私は多様性を重んじることをむしろ快く思っている。だからこそ、私は真に多様性という考え方が良い社会を作るためにこう考えて欲しいのだ。

人々には多様な性質や差があることを認める。その差がぶつかり合わないように社会を繋いでいく。

   差をならすのではなく多様性が、差があることを社会の強みとしていく。そんな社会がこれからの社会であって欲しいと私は強く思う。

まとめ

   昨今話題になったジェンダー・ギャップ指数における女性の政治参加の面などにおいて数の均等(私の主張で言うならし)をすべきといった言論を見たことは無いだろうか?
   LGBTQQIAAPPO2Sといった性を多様化して考える時代において、彼らについて肯定的でない人々を、過剰に悪しざまに批判している匿名の投稿などを見たことは無いだろうか?彼らは多様性を謳ってはいなかっただろうか?いや、高らかに多様性を叫んだことだろう。
  私は現代の人々からするから「差別主義者」なのだろうし自身が思う好悪や独自の価値観で物ごとを測っていることを否定はしない。
   だがそれも考え方の差でありその視点の多様さをこうやって言論に起こして社会を良くしたいと思っているのだ。そこには多様性を社会に求める人々と何ら熱意に差は無いと信じている。

  長々とした駄文を読んでくれた読者のあなたに感謝を。


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