人への関心が薄い自分が他人

【再掲】人への関心が薄い自分が他人への依存に気付いた話

他の記事中にリンクを貼っていたのですが、誤って削除してしまったので再掲します。前回投稿は2018年9月6日。本文中のAさんとはその後も音沙汰なく、この2年後使用していたTwitterのアカウントも削除したため本当に連絡は取れなくなりました。

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Twitterのリプを飛ばされる。
遊びの誘いでDMを送ったが返信が来ない。

■ 違和感 ■
Aさんはかつての仕事仲間である。もう二十年来の付き合いだ。
元々そんなにベッタリとした付き合いではなく、お互い会社を辞めた後は年に何度か会って飲みに行くくらいだった。
私はその後結婚、Aさんは今も独身だが、女性の人間関係が結婚・出産と人生の場面転換ごとに更新されがちな中で、結婚後も子供が生まれて子育てが始まった中でも年に1度かくらいは、誘い合って観光地へ遊びに行ったりしていた。
3年ほど前食事に行ったのを最後に直接会ってはいないが、年に数えるほどリプで会話はしていた。電話番号やメールアドレスなどは携帯を変えると変わるし、お互いを繋いでいるのは主にTwitterくらいだった。
お互いそれぞれの生活リズムがあるからそうしょっちゅうは接触してないけど、特に焦らなくてもこの関係は続くだろう自信があった。

ほんの数ヶ月前からだった。
あまりリプに返信もつかなくなった。
仕事が忙しいのだろう、そうしょっちゅうSNSばかり構ってもいられないのだと想像した。
他の人にリプが付いてるのは知っているけれど、そもそも今までそんな頻繁にリプを付けていた訳ではないし、返信が付いている人はリプも多いみたいだからタイミングの問題だろうと自分を納得させた。

考えないようにしていたが少し気になって、また会いませんかとお誘いのDMを送ってみた。
返信がないまま1日が過ぎた。

「たった1日で焦り過ぎでは」と思われるだろう。
自分でもそう思う。
ただ、彼女がDMを1日放置した事が、覚えている限りないのだ。
すぐに返信できない時は夜のうちにでも「後で改めて」と、確認はできた旨は伝えてきた。
よほどDMをしょっちゅう投げて、いい加減相手も疲れたのだろうと思われるかもしれないが、DMこそ1年に1回あるかないかの頻度だ。
「たまたま忙しくて見ている暇もないのだろう。それこそリプと同じくタイミングが悪いのだ。」
その通りだろう。そう思う。
そもそもそこまで緊急性があるようなメッセージにはしなかった。すぐに返信しなければとは思わないかもしれない。
そう思って昨晩は布団に入った。

眠れなかった。
一晩中返信が来ない事が引っかかってモヤモヤした。
「このままお互い何もなかったように過ぎてしまって、自然消滅的に関係が切れてしまったらどうしよう・・・」
不安で不安で悲しくなった。
朝になっても返信は来なかった。

■ 人への関心が薄い自分 ■
元来、私は他人に対して関心が薄い。
高校時代に駅まで毎日一緒に下校していた女の子が、常に自分から話かけなければ会話が始まらないので一度私から話し始めるまで黙ってみた所、門から一言も会話を交わさず駅につき、電車に乗る際、「じゃあ。」の一言であっさり別れられてしまいビックリした事があると言っていた。
話の内容にも驚いたが、そんな記憶が自分に全くないのにも驚いた。
記憶に残らないくらい、自分から話しかけない事は日常当たり前で取り立てて特別ではなかったのだろう。

そして自分が他人に関心が薄いのと同じくらい、他人も自分には関心が薄くて当然だと思っていた。
人間社会に生きているのだから全く自分の話をしないと言う訳にはいかず、時には身の上の話をする事もあるのだが、そんなに相手が関心を持って聞いているとは思えないのだ。
年齢を重ねるごとに誰かに聞いて欲しい話も減っていき、無難な世間話しかしなくなっていった。
自分が誰かに執着するなんてあるとも思わなかった。

■ 違和感の正体 ■
今朝、朝食の用意をしながらふと気がついた。
「これは依存だ」

人生の場面転換を迎えるごとに付き合う人間は減っていった。
長く付き合いが続いていたのはもう彼女しかいなかった。
人数が減った分、彼女に対する期待の比重がどんどん増していったのだろう。
”こんなに長く付き合っているんだから、わかってくれるよね”、と。

そもそも1年に1~2度ほどリプやメッセージを送る程度の付き合いだったのだ。たまたまお互い余裕のある時に接触があり、たまたま良い印象が保てていただけだろう。共に乗り越えた困難もないのに絆で結ばれる機会などない。関係ができていない部分を、長い時間に都合のいい妄想で埋めていたのだ。

今はまだ極々たまにリプしている程度だが、この先どんどん依存度が重くなり相手に求める事も一方的に増えていったら向こうもたまったものではない。様子見どころかブロックされて本気で逃げ出されてしまう。
変化した関係はそのままに、またいつか気が変われば会う機会もあるかもしれないと置いておく事にした。
人間関係は相手があってゆえだ。自分一人で躍起になって強引に変えるのは道理が違う。
昨晩のモヤモヤの正体が明らかになると一転、冷静になり、というか気持ちが冷めてしまい、重かった胸のつかえもようやく下ろせた気がした。

■ なんだかんだ言いつつ ■
自分は他人に対して関心が希薄で『友達は人生の宝』などというスローガンは世間が丸め込んでくるマインドコントロールだと思っているし、特に周囲に話す人がいなくても十分満足できると思っていた。
自分にもこんなに長く続く関係があるよ、と友達関係を拠り所にしていたとは意外であり、新鮮だった。
何も変わった話じゃない。ただの平凡な人だったのだ、自分も。

■ 関心は外へ ■
40代も3年が過ぎ、人生の折返し地点も見えてきた。
腹の底から分かち合える、とまでいかなくとも、好きなアニメの話題やふと思いついた事を何気なく話す関係の人間が一人もいない事態にやっと危機感が芽生える。

「子供がいるのだからママ友を作ればいいではないか」と思われるかもしれない。実際子供が生まれた頃はママ友を作ろうとあちこちの育児サークルを渡って知り合いを作るのに奮闘していた。

だがママ友はやはり子供があってのものなのだ。育児以外に共通項がないので進学先が変わって子育ての環境が変われば話題も合わなくなり自然と離れてしまう。お互いの子供の相性が悪かったりトラブルがあればやはりうまくいかない。
それでもうまくやり繰りしている人はたくさんいると思うが、自分は長く続けられなかった。

「旦那がいるじゃないか」と思われるだろう。
が、多くの夫婦が必ずしも趣味の合う人とパートナーになっている訳ではないのと同じく、私達2人も考えや好きなことがバラバラで、お互いの趣味に口出しして険悪になった事も少なくない。
生活を壊してしまう要因になるので、なるべく互いのテリトリーは侵さないようにしている。関係が近ければ近いほど、こういった気遣いは必要なのかもしれない。

43年間閉ざしてきた心を急に外に開け放つのはおそらく無理だろう。怖すぎる。恐怖に打ち勝つ気がしない。
だが、物理的に外へ出る事は可能だ。
好きなアニメや漫画のイベントに参加する、デザイン記事を読むのが好きなのでデザイン関連のイベントという手もある。
最近Progateでプログラミングのレッスンも始めて楽しいと思ったので、プログラミング関連のイベントもいい。始めたばかりで難しいことはわからないので初心者でも参加できるような。

行って知り合いができるのはおろか誰とも目を合わさず、一言も交わさず帰ってくる可能性のほうが十分高いが、現地に行けた事実だけでも称賛に値する。少なくとも達成感はある。

こうして方針は決まったのだが大きな問題がある。
無職で外に出るお金がない。

という訳で、当面外出の名目は職探しとなる。
仕事しよ。

大丈夫、進歩はしている。
こんな話も気軽に交わせる人ができるまで、自分で自分にそう言い聞かせていく。