その果て。
眉村卓、という作家は僕らの世代とちょっと上の人は、ご本人のことを知らなくても、作品で触れている人が多いんじゃないかと思います。
少年ドラマシリーズ。謎の転校生。未来からの挑戦。角川映画。ねらわれた学園。薬師丸ひろ子。
ねらわれた学園の文庫で薬師丸ひろ子が表紙になって、いいなあと思って買ったのがきっかけですが、読んでいくうちに「これ未来からの挑戦じゃん」と思って。高見沢みちるって一回聞いたら忘れませんよね^ ^映画はずいぶんあとになってテレビで見て、見なくてよかったとほっとしたのを覚えています^ ^。変えすぎ。
そのおかげで?眉村卓作品にだーっとハマって行きました。大人向けと子ども向けという感じだった印象がありますが、「通り過ぎた奴」という短編集を最後に読むのをやめました。地元の本屋にそんなに並んでなかったんですよね。注文してまで読もうという感じではなかったし、その辺りから栗本薫とか読み始めたから小遣いが足りなかったのかもしれない。
数年前、この「通り過ぎた奴」が集団読書教材になっていてショックだった、というエントリを書いたことがあります。この作品はSFだし、これで何かをみんなに考えさせるようなものではないと思っていたから。
カリスマに対する扱い、です。カリスマはカリスマになろうとしてなるわけではない。ただ好きなことを極めていくだけ。が、時には期せずして、かつなるべくして祭り上げられてしまう。ただ、続けることさえもが簡単ではないと気づく時が来るから。それができることはただ者ではない。自分のための自分が誰かのための自分になっ(てしまっ)た時、自分に戻ることは裏切りになるのか。尾崎豊とかね。そういう現実から、この作品が教材になったのかもしれません。だからといって、僕はそれでも、みんなで読む作品かなあと思っています。まあいいんですけど。
3年前、2019年に眉村氏が亡くなったというニュースを見たとき、ああ、それだけ年月が流れたんだなと思いました。ねらわれた学園は40年以上前の作品ですから。亡くなる数年前には奥さんに読ませるために毎日短編を書いていた、という話を聞いていたけど、これはどうしても読む気になれなかった。上のやつと同じく、僕の中の眉村卓という存在と合わなかったからかもしれません。
亡くなってから一年後、最後の作品として出たのが、「その果てを知らず」。
手に取る気になったのは、SFであるというところが書評かなんかに書かれているのを見たからだったと思います。
老い、死、入院、衰え、家族、友人との関係、社会の中にいること、リタイアした存在のこと、子ども、業界の話…紛れもない80代の人として、来し方を振り返り、現実を語る。その中で語られる入院中の様子は、麻酔やら薬やらで朦朧とすることさえ、SFへの入り口的に語られているように見えて、つまりはそういう自分を客観的に見て楽しんでいたのではないのかとさえ思えたりします。この人は超越している。体力的に量を書き進められないことも、技として使っている。亡くなる3日前にこの作品が完成したそうですが、そういう感じにとても思えないようにできている。年をとり衰えて行く自分をこういう風に受け入れることができるだろうか。
死をSF的に捉えるというのはこの人ならでは。幼い頃にきっと誰もが思った「どこから来てどこへ行くのか」ということ、「死んだらどうなるのか」ということ、若い日に空想の産物だったパラレルワールドの世界が、現実感を伴って見えてきていたのかもしれませんね。それを冷静に見つめる感じに感服します。読みながら、ここまで衰えを書けることに驚きながらも、読み終わった時に、やっぱり眉村ワールドだったなあと思えたのは、改めてすごいなと思います。
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