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近代のデザインについて|講義録

ひさびさに講義録を公開します。ヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン専攻の1年生、それから夜間部グラフィック・デザイン科でおこなっている一日完結型の近代デザイン史の講義。

もちろんデザイン史の授業自体は追々、別の授業で実施するものですが、ここでは前提として頭に入れておいてほしい内容と、それから時代とリンクしたデザインのおおきな動きを捉える目的で実施しています。

*なお、図版については権利関係をふまえ割愛いたします。そのため今回のnoteはデザイン史でありながら、図版無しというありえないつくりになっています。あらかじめご了承ください。

1: 産業革命——規格化・工業化されるデザインと日常
2: モダニズムの黎明期——産業革命と、それ以降の時代にたいする解答
3: ミッド・センチュリーの成熟
4: ポスト・モダニズムを目指して
5: モダニズムへの回帰
6: まとめ、そして新世紀のデザインとはなにか?

キーワード: 工業・産業 / 都市 / グローバル / 規格

これまでの授業をふまえると、デザインには価値基準というものがたしかにあって、それは個々というよりも、もっとスケールのおおきなもののなか判断され、淘汰されているということが、なんとなく肌感として掴めてきているかもしれません。では、その価値や基準というのは、どのように形成されてきたのでしょうか?

ここでは、デザインという営みがどのような背景のなか発展し、わたしたちの暮らしに定着したかを紹介します。こうした歴史というものは、ともすれば、関連するいち知識として捉えることも可能ですが、すこし踏み込み「いままで・これから」を浮き彫りにしながら、時代や文明とデザインの関係と移り変わりをみてゆくことにします。とはいえ、時間も限られますし、膨大な歴史を俯瞰することは、ともすれば軸を見失いかねません(そもそもその規模になると中村の手に余ります)したがって、ここでは現代のデザインにつながる近代に、その焦点をしぼり、いまのデザインがどういう経緯でうまれたか?そして、これからは、どう進んでゆくのか? について、遠見にみていきます。

デザインをまなびはじめ、「このデザインがいい」あるいは「このデザインはよくない」というような、評価を見聞きすることがふえたかもしれません。では、そうした基準というのはどのように形成されたのか?歴史をひもとくことで、把握できることもおおいはずです。また、まれにみられる雑なデザイン史の例で、近代デザインのみを「デザイン」としてあつかう傾向がありますが、それはそれでとんでもないはなしです。人類有史とともに、デザインはともに存在しているのはいうまでもありません。わたしたちはデザインをおこなうことで、時間軸とともに今日までの進化を得たものですし、過去のデザインにより、わたしたちのいまは形成されています。このことは念頭においてください——とはいえ、今回の授業では近代デザイン史のみをあつかいます。すみません。しかもより厳密に近代デザインを扱うとすれば、ルネサンス時代やローマ、ギリシア時代も触れるべきなのですが、そこは割愛します。

いっぽう、近代のデザインというものは、国際化時代のなか、おおくの国で価値観が共有されながら定着・発展したことが特徴です。それまでのデザインは基本的には、それぞれの地域で固有に形成されていたものですが、近代を境として国際的に成熟するともいえる動きをみせます。なんのことはない。Instagramをつうじてニューヨークのファッションシーンをヒントにし、フランスのスイーツによだれをたらし、アジアのリゾートをみながら癒されるとどうじに、友人たちとの他愛もないチャットをおこないつつ、アマゾンでイギリスの古書と京都の工芸品を注文し、南米の若者が自主的に配信した音楽を耳にする、という、今日的「あたりまえ」の感覚にいたる文脈が近代という時間軸です。

またデザインそのものは、OS的な性格をもつおおきなものと、領域が細分化されたアプリケーション的なちいさなものがあります。ここで紹介するデザインは、基本的にはOS的なおおきなデザインです。また工藝的性格を持つもの、美術的性格をもつもの——インフラストラクチャ的、エンターテイメント的ともいえるかもしれません——が、それぞれ存在しますが、そのあたりは混在しています。もちろん、ここで紹介するものごと、もっといえば視点には例外はたくさんあります。あくまでも、俯瞰的な一例ととらえてください。菊地成孔氏が「人間が編纂するすべての歴史は偽史」というように、その対象が膨大なだけに、わずかに着眼点が変化するだけで、そのみえかた、解釈はおおきく変化します。例外はいくらでもあります。ですから、今後は受講者のみなさんそれぞれが、それぞれにデザイン史を編むことが、ひとつ重要なことなのかもしれません。

俗に近代デザイン——モダニズム、あるいはモダン・デザインと称される、デザインの様式はちょうど19世紀中後期に芽生え、ほぼ20世紀の一世紀をかけて発展・定着、そして成熟しました。そうした意味では、2010年代の終盤をむかえた現在ではそれを客観的にふりかえりながら、課題をみつけ、解決策を模索するタイミングとしては適切といえるかもしれません。


01: 産業革命——規格化・工業化されるデザインと日常
こんにち「デザイン」とよばれるものは、ともすれば漠然とモダニズム、もしくはモダン・デザインを指すことがしばしばです。そうしたとき、それ以前のデザインといえば必然的に工藝(工芸: Craft )を差しているともいえるかもしれません。いわゆる、手工藝とよばれるものたち。職人による鍛錬された技藝にもとづくものです。現在も、伝統工藝とよばれるものに、そのプロセスや成果をみることができます。それらは世界各国にそれぞれ存在し、環境や地域特性、文明・文化にあわせ、時代のなかで、それぞれの文脈で成熟したといえます。

そして、これらが近世になると、徐々にひとの手から機械による製造へうつり、それらが流通する規模も拡大してゆきます。このあたりから、あらたな時代における生活様式、そしてデザインが模索されるようになります。産業革命がおこることで、国土のなかの人口比率が変化し、ここで都市と郊外という構造が誕生します。近代のデザインはいわば、近代の賜物である都市生活のためのデザインであり解答、であるともいえます。


02: モダニズムの黎明期——産業革命と、それ以降の時代にたいする解答
モダニズムのデザインは、そうして産業革命以降の世界、そこでの流通と成立を前提としたデザインです。つまりは工業生産、すなわち、大量に生産できること。そして、そうして製造されたものが、ひろく流通することです。ですから、必然的に機械生産に対応したデザインがもとめられるようになります。

しかしながら、現在とはことなり黎明期のそれらは、ひとの手に著しく劣るものたちでした。産業革命の中心地でもあったイギリス ロンドンにおいて、このような未熟な利便性のなか忘れられかけた、手工藝を再認識・再評価し、どうじに生活美学を自覚し、啓蒙したのがジョン・ラスキン(1819 — 1900)、そしてウィリアム・モリス(1834 — 1896)、ふたりのマルクス主義者を中心に展開されたのがアーツ・アンド・クラフツです。家を基点としながら、壁紙をはじめとした生活用品、それに書物……という展開は、生活とデザインをむすびつける発見ともいえます。このような性格から、一般に世界最初のデザイン運動とも呼ばれるアーツ・アンド・クラフツ運動ですが、近代のなかで生まれた様式としては珍しく、ある種の反近代性、反産業革命の性格を持つものといえます。これらは結果的に熟練した技藝をもつひじょうに手の込んだ様式となり、結果、工藝というよりも、美術・藝術性に重きをおいたものといえます。それがゆえ、ひろく普及することはなく、ひとつのコミュニティの範疇を超えることはありませんでした。

いっぽう、19世紀末フランスではパリを中心に新藝術 アール・ヌーヴォーがうまれます。ガラスや金属という工業素材をもちいながら、植物や昆虫をモチーフとした有機的造形が展開された藝術運動です。これらはベルギーやチェコ、ドイツなどの近隣諸国にも展開してゆきます。しかし、これらも本格的な定着はなく、一時の流行様式にとどまりました。20世紀にはいると産業革命はすでに定着しました。ドイツにおいてはヘルマン・ムテジウス(1861 — 1927)、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863 — 1957)、ペーター・ベーレンス(1868 — 1940)、ブルーノ・タウト(1880 — 1938)によるドイツ工作連盟が1907年に結成。美術と産業の融合をめざし、ガラスや金属、コンクリートをもちい、幾何的な造形様式へと移行してゆきます。ここでの試みは、その後の近代デザインの時代と様式を決定づけた運動ともいえます。

産業革命の中心地であったイギリスにおいて、それに対するアンチテーゼをおこなったアーツ・アンド・クラフツ、藝術大国フランスで流行したアール・ヌーヴォー。工業先進国となるドイツで生まれたドイツ工作連盟。おなじように、近代化のなか徐々に経済的主導権をにぎりはじめたアメリカでは都市部のニューヨークを中心にアール・デコ(1910 — 30年代頃)が、国土すら自らの手でつくりだした造形大国オランダではデ・スティル(1917年頃から)、社会主義国として1914年に誕生したばかりのソヴィエト連邦ではロシア構成主義(1917年頃から)が興り、各国・各地域において、近代における解答としてのデザインが様々に模索されるようになります。1908年には建築家 アドルフ・ロース(1870 — 1933)による『装飾は罪悪である』が刊行。その後の近代デザインにおける様式のありかたを言語化します。

1919年にドイツはワイマールにバウハウスが設立。一般に世界最初の近代デザイン教育機関とよばれるここでは、前述のドイツ工作連盟とも関わりのあった建築家 ヴァルター・グロピウス(1883 — 1969)をはじめ、造形教育者ヨハネス・イッテン(1888 — 1967)、タイポグラファ モホリ・ナジ(1895 — 1946)、デザイナー ヘルベルト・バイヤー(1900 — 1985)、画家 パウル・クレー(1879 — 1940)、建築家 ミース・ファン・デル・ローエ(1886 — 1969)などにより、職人技藝と藝術、工業を横断しながら、あらたなる時代の造形を模索してゆきます。しかし、1933年にナチスによる閉鎖。その歴史はあまりにもみじかいものでした。

ときをおなじくして、ソヴィエトではヴフテマス(国立高等美術工芸工房、のちにスヴォマス、ヴフテイン)が成立。ここではカジミール・マレーヴィッチ(1879 — 1935)、エル・リシツキー(1890 — 1941)らにより、時代の美術・工藝についてまなぶ場が用意されます。バウハウス、ヴフテマスにみられるよう、1920年代を前にそれまでの造形要素が整理整頓されながら、新時代にむけて展開・整備されてゆきます。

同時期の日本におけるうごきをみてみます。1887年に岡倉天心(覚三, 1863 — 1913)とアーネスト・フェロノサ(1853 — 1908)により、東京美術学校(現 東京藝術大学)が設立。明治の開国以降、輸入された美術という視点をふまえながら、造形教育をおこなう国内初の教育機関となります。その前年となる1886年には旧 東京大学工芸学部と工部省 工部大学校が統合され、帝国大学工科大学(のちに東京帝国大学工科大学、東京大学工学部)が誕生。辰野金吾(1854 — 1919)らが教鞭をとり、伊東忠太(1867 — 1954)らがまなびます。1990年には国内初の私立美術学校、女子美術学校(現 女子美術大学)が創立。

1926年には柳宗悦(1889 — 1961)、河井寛次郎(1890 — 1966)、濱田庄司(1894 — 1978)により「日本民藝美術館設立趣意書」が発刊。これより民藝運動が具体化します。民藝とは、民の工藝の意。鑑賞としての美術品ではなく、生活においてもちいられ、また産地の土着性に由来する食器、染物、家具などを評価するものです。1929年には帝国美術学校が創立。1935年には帝国美術学校(現 武蔵野美術大学)と多摩帝国美術学校(現 多摩美術大学)に分裂します。

この時代になると、のちの時代の基準となる造形者が出そろいはじめます。近代建築の四大巨匠とされるヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエ、アメリカではフランク・ロイド・ライト(1867 — 1959)、スイスとフランスを拠点にしたル・コルビジュエ(1887 — 1965)らが続々と、新時代の建築や都市景観、生活を提案します。ガラスに金属、コンクリートという工業素材をもちい、幾何的な造形をおこなった彼らの計画・デザインは、当時としては異端のものでした。そしてミースやコルビジュエは高層建築を都市部における集中した人口の解決策として提案します。

しかし、2018年現在のわたしたちの目に、彼らの仕事はどのようにうつるでしょうか?おそらくは「ふつう」のデザインにみえるかもしれません。そのとおり。当時の前衛的な提案は20世紀という時間をかけて定着し、現在においては日常における当然の、不可欠のものとなっています。

同時代のイギリスにおいては、先端技術をもちいて古典活字の復興をおこなう動きも出てきています。スタンリー・モリスン(1889 — 1967)とフランシス・メネル(1891 — 1975)を中心とした、いわゆるフラーロン派は1925年の活動開始以降、フォント・ベンダー モノタイプ社と恊働し、ルネサンス期のからはじまる活字 Bembo、Garamond、Baskerville、Bodoniなどを現代に蘇らせました。またスタンリー・モリスンは新聞タイムス紙と連携し、自社書体となるTimes New Roman書体を開発し、彫刻士 エリック・ギルを起用し、あらたな書体を生み出しています。

バウハウスでは手組みの金属活字による組版作業がおこなわれていましたが、この時代のモノタイプ社では自動金属活字鋳造機がもちいられるようになり、組版精度も飛躍的に向上しています。このように、いまでもなおデザインにおいては基準となる造形と、その思想、様式が1900年代の前半までに生まれています。一見すると、幾何形態による造形をおこなった前者と、伝統的な活字復興をおこなったフラーロン派は相反するようにもみえます。しかし、その根底には、工業化、規格化、そしてグローバル化という共通項が存在します。


03: ミッド・センチュリーの成熟
1950年代にはいると他言語国家であるスイスの二大都市で、あらたなタイポグラフィ様式が成熟します。これらは俗にスイス派、あるいはスイス・スタイル・タイポグラフィとよばれ、それぞれが発展した都市名をもちい、チューリッヒ・スタイル、バーゼル・スタイルと呼称されます。これらは活字の規格をもちいて、画面を規格化したグリッド・システムによる、ある種の建築的設計を軸とし、サン・セリフ体をもちいた左右比対称、ラギッド組版の採用……と共通しながらも、広告物を中心にグラフィック・デザインが盛んであったチューリッヒと、書物印刷でしられたバーゼルでコンセプトのちがいがあります。チューリッヒではヨゼフ・ミュラー=ブロックマン(1914 — 1996)が、バーゼルではエミール・ルダー(1914 — 1970)がその中心人物となりました。前述のフラーロン派とスイス派の動きもまた、相反するものにみえるかもしれません。しかし、初期においてロシア構成主義やバウハウスに影響された、動的なグラフィック・デザインを制作していたヤン・チヒョルト(1902 — 1974)は、ある頃を境に書物において静的なタイポグラフィを追求するようになります。一見、前時代的な伝統様式のデザインとなってゆきますが、細部をこまかくみてゆけば、それまでの近代デザイン運動の集大成であり、ひとつの現代への解答というみかたもできます。

1953年にはドイツ ウルムにて、ウルム造形大学がオトル・アイヒャー(1922 —1991)夫妻による設立、バウハウスにまなんだマックス・ビル(1908 — 1994)を学長とし、バウハウスに端を発するモダン・デザインを成熟させます。マックス・ビル曰く「デザインとは——それがヴィジュアル・デザインであれ、プロダクトデザインであれ、建築であれ——すべて環境形成である」とし、アーツ・アンド・クラフツ以降、包括的に展開されるデザインの領域を再定義したといえます。ここでは産学連携形式の講義がおこなわれ、ルフトハンザ航空やブラウン社におけるデザインの方向性を決定付けました。

これにかぎらず20世紀なかばになると、各国でモダニズムの成熟をみることになります。ここでは20世紀の終盤にミッド・センチュリー・モダンと括られた、チャールズ・イームズ(1907 — 1978)とレイ・イームズ(1912 — 1988)によるイームズ夫妻のアメリカにおける活躍。アルヴァ・アールト(1898 — 1976)、アルネ・ヤコブセン(1902 — 1971)、ハンス・J・ウェグナー(1914 — 2007)らの北欧勢。ブルーノ・ムナーリ(1907 — 1998)、アッキレ・カスティリオーニ(1918 — 2002)のイタリア勢、原弘(1903 — 1986)、河野鷹志(1906 — 1999)、吉村順三(1908 — 1997)、丹下健三(1913 — 2005)、剣持勇(1912 — 1971)柳宗理(1915 — 2011)、亀倉雄策(1955 — 1997)ら日本勢を紹介します。

日本においては、1951年に山名文夫(1897 — 1980)、原弘、河野鷹志、亀倉雄策らにより日本宣伝美術協会が、1953年に勝美勝(1909 — 1983)を中心に、日本デザインコミッティーが、その後、1960年に東京で世界デザイン会議が開催。コルビジュエの門下生であった坂倉準三(1901 — 1969)を代表とし丹下健三、柳宗理らが実行委員をつとめ、国外24カ国から、ヘルベルト・バイヤー、ルイス・カーン(1901 — 1974)、ブルーノ・ムナーリ、ヨゼフ・ミュラー=ブロックマンらが招聘されます。国内からは槇文彦(1928 —, )、菊竹清訓(1928 — 2011)、黒川紀章(1938 — 2007)らが参加。きたる東京オリンピックに象徴される、高度経済成長期にむけたデザインの準備がはじまります。日本の近代デザイン史において、金字塔のように語られる1964年の東京オリンピックは日本におけるモダニズムの享受を象徴する出来事であったといえます。

また1952年には東京藝術大学にて教鞭をとった小池岩太郎(1913 — 1922)のゼミ生であった栄久庵憲二(1929 — 2015)を中心に「美の民主化」をマニフェストとしたGKが設立されます。ちなみに小池岩太郎は環境デザインという概念でいちはやく国内のデザイン教育に携わったひとりであるといえます。GKの由来がグループ・オブ・コイケであるのも有名な話です。

このように、様々な解釈におけるモダニズム。近代における工業化に順応しようと模索し、考察されたデザインたちは、その特性、そして時代もあいまって、国際的に定着することとなりました。いま現在にいたるデザインの価値基準は、この20世紀の成果であり、結果ともいえるでしょう。


04:   ポスト・モダニズムを目指して
いっぽうで、そうした工業的であり禁欲的・無国籍的な様式は、一定の成熟と定着をみると、それのつぎのデザインが模索されるようになります。1961年のイギリスではアーキグラムが結成。夢見心地なドローイングによる建築作品を発表します。ときをおなじく1966年には、イタリアではスーパースタジオが登場。グリッドによるペーパーアーキテクトを提案します。アメリカではハーブ・ルバーリン(1918 — 1981)のデザインによる雑誌『エロス』が1962年に刊行。デザインがそれまでのインフラストラクチャとしての枠をこえ、カルチャーとひもづきながら展開されてゆきます。いっぽう、1963年にはアイヴァン・サザランド(1938 —, )によるスケッチバッドを発明。のちのGUI形式造形ツールの指針をしめすことになります。

国内では1960年の世界デザイン会議に参加した建築家 菊竹清訓、黒川紀章らによりメタボリズムが結成。都市規模の巨大な建築物は、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会で具体化されます。1954年には桑沢デザイン研究所が、それを母体として1966年には東京造形大学が創立となります。ここにおける造形の語はArtを美術と翻訳することたいして、Designの翻訳語として命名されたものです。1975年には東京藝術大学 美術学部 工芸科からデザイン科が独立。世界的に美術教育から、デザインというかたちでの教育がこころみられるようになります。

1980年代になるとエットレ・ソットサス(1917 — 2007)や倉俣史朗(1934 — 1991)を中核としたメンフィスによる活動や、フランク・ゲイリー(1929 —, )を代表とする脱構築主義建築、グラフィックスにおいては1984年に創業したエミグレ、1986年に活動を開始したオクタヴォが、それぞれに表現的なデザインをおこなうようになります。これらは俗にポスト・モダニズムと称され、今日では羨望と失笑の対象になる1980年代を象徴するデザインとなります。おりしもバブル経済により空前絶後の好景気をむかえた日本では、それらは特に歓迎され、投資の対象となってゆきます。

テクノロジーの面では、それまでは金属活字や写真植字、製図器で制作されていたものが、黎明期のコンピュータ・アプリケーションに取って変わられます。しかし、これらはモダニズムの枠組みのなかで成立するものであったともいえ、表層的にはともかく、根本的なモード・チェンジとはなりませんでした。そのため、ポスト・モダニズムは一過性の流行に留まったともいえます。


05: モダニズムへの回帰
1990年代になるとパーソナル・コンピュータが普及し、それにともないDTPアプリケーションも定着します。俗に「Macでデザインする」といわれはじめた時代です。Adobe Illustrator(1986)やAdobe Photoshop(1990)、QuarkExpress(1987)、VectorWorks(1985)など、今日にいたる様々なアプリケーションは、その特性としてモダニズムのデザイン設計と、非常に親和性が高かったことは無視できません。仮にAdobe Illustratorで組版しようとすれば、初期設定はサン・セリフ体、左頭揃えで行なわれます。これらはスイス派のタイポグラフィの設定といえる。モダニズムの時代が理想として制作プロセスを具現化したのが、現在のコンピュータ・アプリケーションといえるかもしれません。

そうした背景があるためか、1990年代半ば以降、前述のとおり1950 — 60年代のデザインがミッド・センチュリー・モダンと呼称され、リヴァイヴァルがおこります。イームズやブロックマン、ヤコブセンらの再評価、国内では、当時まだ存命であった柳宗理や渡辺力(1912 — 2013)の再評価が進みます。こうした傾向はある種のデザイン・ブームとも呼べる状況となり、その結果、2000年に月刊誌として刊行された、マガジンハウス『Casa BRUTUS』のような「一般デザイン誌」を生むことになります。

こうして、ポスト・モダニズムののち、ふたたびモダニズムは脚光を浴びることになります。原研哉(1958 —, )や深澤直人(1956 —, )、ジャスパー・モリスン(1959 —, )、をはじめ、安藤忠雄(1941—, )、隈研吾(1954 —, )、妹島和代(1956 —, )と西沢立衛(1966 —, )によるSANAAや、その師である伊東豊雄(1941 —, )ら、00年代にはモダニズムを再解釈する、ネオ・モダニストたちに評価があつまりました。


06: まとめ、そして新世紀のデザインとはなにか?
20世紀のデザインをふりかえると、都市における、国際的な、工業生産・素材を前提とし、規格化されたデザインであるといえます。レム・コールハース(1944 —, )が主著『S, M, L, XL』(1995)で指摘したとおり、都市には中央と周辺が存在するもの。19世紀より、中心を軸としながら、そこからものごとが周辺に伝播していた図式に、近年変化がみられます。

2010年頃から、地域の特性を軸にデザインを形成するうごきもでてきました。工業的・無国籍的なモダニズムとは異なる潮流のデザインという意味では、ポスト・モダニズムとも共通しますが、そこにある表現主義・嗜好的なものではなく、より風土や環境に則した固有性を模索・定着しようという試みといえます。ナガオカケンメイ(1965 —, )による各地の地場産業などを紹介するD and Department Project、梅原真(1950 —, )による地方におけるコミュニケーション・デザインの展開もそうですし、風土形成事務所とその主宰である廣瀬俊介(1967 —, )のように現地調査に基づき、そこにおける伝統工法をふまえたランドスケイプ・デザインも一例といえます。ある意味で、20世紀までのグローバル感覚の頂点ともいえるインターネットの整備が完了し、そこでみえたのはフラットな世界ではなく、差異ばかりの有機的な場であった……ということかもしれません。

柳宗悦による民藝運動を今日として再解釈せんとする新潮社発行の雑誌『工芸青花』(2014 —, )や、工藝風向 店主 高木崇雄(1974 —, )のうごきもまた、日本におけるモダニズムを再考する意味で見逃せません。また、2011年に刊行された『Kinfolk』誌に代表されるポートランドを主体としたライフスタイル・デザインも、その地におけるモダニズム再解釈、その文脈で理解することができます。

ローカルにおけるデザイン・ブームは近年さかんなものですが、これらを一緒くたに評価することは難しく、形式的なローカルのデザインをコピー・ペーストするような、そもそもの意味を失わせる時代も散見されます。たんに都市、国際化というもを対照的に地方、ローカルをあててもしょうがないことです。それはマックス・ビルのしめした環境デザインというものを都市計画的なEnvironmentalではなく、音楽家 ブライアン・イーノ(1948 —, )の提唱するAmbient、あるいは和辻哲郎(1889 — 1960)いうところの風土のように、あいまいであるが、たしかに存在する周辺領域としてとらえ、対立的ではない、それぞれにとっての最適解をめざす段階なのかもしれません。

日本を例にとってみても。今度の東京オリンピックに象徴されるインバウンド向けのデザインをみていれば、明治維新による近代化という名のもとの西洋化、あるいは敗戦後の高度経済成長、それはできたものの、アイデンティティの不在というか、借り物の近代化・現代化をしながらも、みずからのしぜんな近代化・現代化はまだこれからの課題であることが浮き彫りになります。そうした意味で私個人は最近では、近代の日本の思想にヒントがあるようにも感じています。柳宗悦や鈴木大拙(1870 — 1966)、西田幾多郎(1870 — 1945)あるいは谷崎潤一郎(1886 — 1965)など。日本においては近代化の名のもとの西洋化のさなか、順当な方でのモダニズムを模索し、かたちにしたのは、デザインや建築よりも、こうした思想であったのかもしれません。彼らが何十年も前に記したものは、今日ではデザインのおおきなヒントになると私は感じています。

近代以来、われわれは西洋におけるモダニズムや価値観の長所を取り入れるだけ、取り入れているともいえ、そのなかで生じた混乱を整理し、咀嚼、消化することが、これからのデザインにおける課題といえます。初回授業でもふれたとおり、デザイン、その性質としては生活基盤を形成するものであり、そのなかでグラフィック・デザインは視覚媒体を主とした、コミュニケーション・インフラストラクチャともいえます。そして、それは各々の目的にあわせ最適化されてゆかねばなりません。時代や状況、環境や文化……ケースにより様々の最適化が存在することを念頭におき、今後の時代におけるデザインを形成してゆくことがもとめられます。


3 September 2019
中村将大

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