久々に今のボカロシーンについて語ろう

相変わらず緩めの更新頻度でお届けしております。いかがお過ごしでしょうか。
最近麻雀をかなり久しぶりに再開してます。音楽を聴いたり漁ったりしながら雀魂の段位戦に潜ってますが、雀聖到達目前でポイントを溶かしてしまい萎えてます。というわけで萎えた手隙で「過去の名ボカロ曲をレビュー」シリーズの記事を書こう…としたら今度はニコニコ動画がサイバー攻撃を受けて一時停止状態になってしまいそもそも曲が聴けなくなってしまったので、単独記事として投稿することにしました。

というわけで、それくらいのモチベーションで書く今のボカロシーン観なので大した見解があるわけではありません。一言でいうならば、大枠として昔からそれほど変わっていないだろうなということくらい。希望に満ち溢れているわけでもなく、一方で悲観するほど将来性が無いわけでもなく。ただ単に日々お気に入りの楽曲が見つかり続けていくことだけはまだまだ果てることはないのかなと感じるところです。ただし今回のニコニコサービス一時停止で日々の営みが一旦途切れたことがどのように影響していくかは再開以降まで不明ですが。
その中でとりあえずは以前から最も大きく変わったと個人的に考えていることは、全体としてニコニコ動画における合成音声楽曲の基礎再生数が減っていること。ここでいう「基礎再生数」とは楽曲の内容、動画タイトル、サムネイル、投稿者の人気や人脈等に関わらず、タグさえ整備されていれば少なくともこれくらいは再生されるだろうというおおよその数値、とでも定義しようかなと思います。自分がこの数値を意識し始めた2013年ごろは大体ではありますがどんな動画も3日程度で100再生は突破し150再生前後に落ち着く、という感触でしたが、年々その数値は減少し一昨年辺りからは100再生に届かない動画も珍しくないといった状況です。
とは言えこのことは特別悲観すべき事柄なのか、といえばそうでもないとも思います。近年はyoutubeを始めとしてニコニコ動画外でも盛り上がりを見せているボカロシーンにおいて、ニコニコ内のことで全体として何かを量れるかということもありますし、また単に基礎再生数が減少しているだけで、SNSでの宣伝や口コミ等が上手くいっている楽曲は従来とそう変わらずに伸びます。近年の「全曲チェッカー」という言葉の普及とは裏腹に結局は減り続ける基礎再生数。あくまでボカロシーンが生息地を広げる中で居場所のようなものがより細分化し、それぞれがわざわざ相互に関わり合うにはちょっとした熱量がいる、その表れくらいのものなのかなと。ただややネガティブ要素ではあることは間違いないかなと。ボカロシーンの面白いところの一つに顔も声も素性も分からない奴が突如として現れてとんでもない曲を残していく、というのがあると思っているので、人脈がある、宣伝上手、口コミで広がりやすい等の要素が無くても聴かれやすい状況が緩やかに減退していくことは避けたいもの。

その一方でボカロシーンのポジティブ要素は何かといえば、やはりそれなりに年数を稼いできたので結構な独自性のようなものが蓄積されてきたところですかね。ボカロっぽい音楽とは何か?という永遠の未解決問題はあるにしろ、「ボカロっぽい音楽」と呼べる何かは曖昧な境界を形成しつつ間違いなく存在していると言えるわけで、それが今後どのように変化していくか、外界へ漏れ出ていくのか、ということは楽しみの一つですね。

Flat氏の連載以降にも新たな流れが続いていることは明白。メインストリームなところでいうと、個人的なざっくりとした認識ではツミキ「フォニイ」の影響とハイパーポップ的な何かの流入が大きいように感じています。あくまで個人的に、ざっくりと。もっともっと繊細に、したたかに行く流れはたくさんあります。こうしたそれなりの年月をかけて醸成されてきたボカロっぽい音楽性らしきものが、ボカロシーンの外にも少しずつ影響を与え始めているという言説がここ数年で何回も出てきていたりします。

分かります。特に無性別性とラブソングの少なさという要素はこういうところでは指摘されることが少ないので良いですね。このあたりは鮎川ぱて氏の「東京大学「ボーカロイド音楽論」講義」でも指摘がある通りのことでもあり、密かな重要性があると思います。個人的にもかつて邦ロック論壇のマッチョイズムにうんざりしていたことがあって(今はだいぶ緩和していると思いますが)、その分ボカロ界隈はその方向性では安心できるなと思ったものです。
ただ確かに分かるんですが、ボカロ音楽の影響が一般層に広がってきていると言う時に例に挙がってくる音楽に殊更ボカロ固有の何かがあるか?という疑問も持ち上がります。上記記事で挙げられている米津・ヨルシカはボカロ出身とは言え果たしてボカロ特有のエッセンスがあるかというとやや疑問符が付くように思う(いずれも00年前後の邦ロックのニュアンスの方が支配的に感じられる)し、ヒゲダンに関してもボカロがなかった世界線では存在しなかったような音楽性だとはあまり思えません。加えて、詳細に分析すると長くなりすぎるので割愛しますが、「日本人の音楽が西洋的音感から解放」されているかどうかという元記事の観点についても、ベースを鳴らして上に音を積み重ねる音程感、和声感は西洋的でないとは言いがたいと思います。ボカロがJ-POPとか邦楽全体とかに影響を及ぼしていると言ってもまだまだ限定的で、一過性の流行を超えた存在となるかどうかはこれから次第であると考えますし、さらに西洋的音感から解放されるかどうかに関してはさらにその先の話になるかと思います。

世の中的に、ボカロが一般の音楽にも影響を与えているということの面白さが優先されすぎていて、そもそもの音楽性の検討がやや結論ありきになることが度々見られるように思います。ボカロっぽさ、ボカロらしさと呼ばれる音楽性は、多くのボカロ曲に見られる特徴から帰納してそうであると見做されているに過ぎないものであり、それを逆に「こういう特徴があるからボカロっぽい(もしくはボカロ関連である)」と演繹することについては扱いに注意が必要です(コミュニティーノート風)。程度問題であり、当然自分もそんなことは全くやったことはないなどとは言えないし、決してやってはならない類のものではありません。なんならこじつけの面白さは好きだし、あらゆる言説はこじつけであるという考えもありますが、批判的な視点も必要と思いこの文章を書くに至ります。

批判的視点の不在に関してはFlat氏が分かりやすくまとめていますが、それなりに以前から同様の見解が一部で共有されているように思います。趣味という領分によって大半が構成されているボーカロイド文化はガチ的要素の強すぎる批判とは相性が悪い、とされ批判的視点が不足する問題が慢性化している、と。ただここ最近、個人的な見解としてはそうとも限らないと思うようになってきています。

特にきっかけとなったのは「メズマライザー」周辺のあれこれです。2024年上半期で最も話題性のある楽曲の一つと言えるメズマライザーはMVも含めて意味深な描写が多く、いわゆる考察が盛んに行われることとなりました。この考察はボカロ文化の伝統とも言えるほど、古くは悪ノシリーズやハチ楽曲等にて行われてきています。一方で考察文化に対する反発もかつてからそれなりに根強く、特に今回のメズマライザーへの考察に関しては、あまりにも深読みしすぎた内容が多すぎたために作者自身がいくつか言及することとなり、それに便乗するような形でこじつけ要素の強い考察に対する反発が発生しました。さらには考察文化そのものへの否定的意見も見られました。
要するにこの否定的意見もある種の批判的視点であるという見解です。もちろん、考察に対する否定的意見は単に在野で自然発生しただけのもので「批判的視点」という上等なものではない、と感じる人もいると思います。ただ自分は、小奇麗に論点を整えた意見だけを批評だとすることが妥当だとは思わないし、その姿勢自体がそもそも批判的視点を失う方向にしか向かわないと考えます。また質の高い批判が少ないということだとしてもそれは何処の界隈でも同じことで、結局ボカロ界隈特有ではないように思われます。
そう考えると、ボカロ文化周辺でも批判的視点は大なり小なり点在しており、それを上手く拾えていないだけという見方もできます。存在していないものは存在していないので無理なものは無理な場合も間違いなくありますが、濃度を見極めて上手く拾っていくようにしていくことも大切ではないかと思うところです。

さて、「こじつけの面白さは好き」と先述した通り、個人的には考察というものも悪くはないものだなと思っています。ただ問題点もあるように思います。それは「考察」という言葉遣いに代表される、ある種の中途半端な卑屈さです。あくまで「考察」ですよ、つまり単なるそれぞれの解釈でしかないですよ、断言するつもりはありませんよ、気楽に楽しんでいるだけで本気にしないでくださいよ、というエクスキューズが全体的になんとなく滲み出ていると感じられてしまいます。個人的には、現在もそこかしこで行われる考察は批評の一種であると考えていますし、少なくとも隣り合わせの概念ではあると思います。そこで批評という大げさな言葉から生じる重大性、責任性から逃げるために、いわば消極的に「考察」という言葉に逃げ込んでいるように感じます。

こうした卑屈な言葉選びをすることに関して思い出すことと言えば「歌ってみた」、またはそれに紐づいた「歌い手」の歴史についてです。「歌ってみた」が現在の音楽シーンでそれなりに大きな存在になっていることを否定する人は恐らくいないでしょう。少なくともボカロ文化と密接な関係を持っていることは疑いようがありません。しかしその「歌ってみた」がどのような役割を果たしてきたか、どのような変遷を辿ってきたか、あまりにも語られなさ過ぎています。「歌ってみた」文化そのものが規模の割に軽視されている、と言って間違いないでしょう。

その点で知花ノゾム氏による一連の歌い手史の記事は、抜けていた穴を埋めるような、意義深い内容であると感じます。歌い手がどのように受容されてきたかはもちろん、歌い手のキャラクター化とVtuberとの関連性の考察も非常に興味深いです。

「本気ではないですよ」と感じられる姿勢やお題目は参入障壁の低さとして機能する一方で、歴史的に軽視される要素となってしまうように思います。いや、別に軽視されるかどうかとかどうでもいいんだけど…という考え方はあるにしろ、個人的にはかなしいなあと思ってしまいます。

さて、話がとっ散らかって長くなりすぎてしまいましたので、ここらで話をボカロに戻しつつ、目下の注目点について語って最後としましょう。
現在、ボカロシーンの中心地であるニコニコ動画はサイバー攻撃の影響で一時サービスを制限しており、元通り自由に曲を投稿したり聴いたりするまでは1ヶ月ほどかかるとの見通しのようです。では、ニコニコ動画が再開した際にどのような動きが起きるか考察していきましょうか。
恐らくニコニコ動画が停止している間は投稿される予定の楽曲がどんどん溜まっていくことになると思います。そして溜まった楽曲はニコニコ動画再開直後に一斉に投稿されることが予想されます。では、どれくらい投稿されるかさくっと調べてみましょう。ニコニコ超検索にて「vocaloid オリジナル曲」で検索した際の2024年5月の投稿数は3144件、4月は3139件、3月は3157件。検索漏れもある程度あるでしょうし、少なく見積もっても1ヶ月で3000曲は溜まると考えていいでしょう。前回ボカコレが4日間で約7100件(注:オリジナル曲以外も含む)であること、投稿日時はそれほど分散されないだろうことを考えると、ニコニコ動画再開直後のボカロ曲投稿量はボカコレ期間に匹敵する密度になることが予想されます。そもそも同じく4日間に分散したとしても半分程度の密度で、あのボカコレの半分というのも相当なことです。ただし今回の一時停止でニコニコに愛想を尽かした人の割合が全体に比べて無視できるほど低いと考えてですが。まぁそんな人は今更そういないでしょうし、むしろ今回の騒動をネタにした曲を引っ提げてくる人もいるでしょうし全体としては変わらない気がします。
もちろんニコニコ動画が再開した暁には祝・再開!ということでたくさんの人が戻ってくることになると思われるため、普段と比べて著しくリスナーが少なくなるという事態は直ちには起こらないと考えられます。ただ問題となるのはボカコレと違って特に祭りの期間が今のところは無いということです。いつまででも再開の興奮を持続できるわけではないし、いつかは熱は散らばっていきます。それが一時停止前のように元通りになるのか、または空白の時期を埋めるように増えるか、または途切れてしまったものを繋げることはできずに減ってしまうか、基礎再生数の推移にも注目してみたいですね。
他にも、恐らくyoutubeに先行で投稿されている曲も多くあるだろうからそれがどのように影響するかということや、投稿が早ければ早いほど再生されやすいだろうということがどう表れるか、一時停止直前に投稿されていた曲はどう推移していくか、など注目点はいろいろありますね。特にボカコレ開催の度に皆疲弊しているわけでそれに匹敵する規模の祭りが予期せず生まれてしまったらどうなるか…漠然とした点ですが、ボカロシーン周辺のムードも果たしてどうなるか、今のところは見当もつきませんね。
いずれにせよこの記事が、来るニコニコ動画再開の時までの、なんらかの心構えの参考になれば幸いです。

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