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ボカロ曲「考察」は「こじつけ」?

「メズマライザー」、最近、流行りに流行ってますよね。

明るい曲調の裏にある闇が話題になり、YouTubeでは1000万回再生突破の最速記録を更新したりしています。

そんな中、作者のサツキさんが投稿したある声明も、一部では大きな話題になりました。

「自動翻訳字幕にすると歌詞の真の意味がわかるぞ…!」←海外のリスナーからお送りいただいた各言語の字幕をYouTubeが勝手に翻訳して字幕として表示しているだけなので真の意味もクソもありません。

「投稿日が4/27なのって…」←一刻も早く重圧から開放されたかったからです。

「逆再生にすると〇〇って聞こえる…!」←あなた達の空耳です。

「ここの〇〇って歌詞が〇〇に聞こえる!」←サツキの調声が下手なだけです。精進します。

このようなちょっと考えすぎかもというものには流石にツッコんでいきます。

「よくありすぎる質問に答える記事」サツキさんのPIXIV FANBOXより

つまり、楽曲の「考察」に対して少しお咎めをした訳ですね。

この件は、ボカロ界隈固有の文化である「考察」のあり方について考える、よい機会だと思いました。 

今回は、「考察」についてまとめてみようと思います。


「考察」とは

考察(こうさつ)とは、特定の事象や現象、問題について深く思索し、理解を深めるための活動を指す言葉である。

「考察」Weblio辞書より

つまり、歌詞やMVなど、楽曲の要素の裏に隠された、設定やストーリーを解き明かそうと考えること、ですね。


「考察」文化の成り立ち

音楽に対して「考察」をする文化はかなり特異で、他のジャンルにはあまり見られません。
しかしボカロ界隈では、「考察はするもの、されるもの」という意識がほぼすべてのリスナー、クリエイターに共有されており、大抵の楽曲は「考察」が前提に作られています。
何がきっかけで、この文化が確立されたのでしょうか。

私は、「カゲロウプロジェクト(カゲロウデイズ)」の影響が大きいと考えています。

この楽曲は、今のボカロ界では当たり前の「楽曲の中で物語を紡ぐ」という構成を初めて採用し、大ヒットした楽曲です。

カゲロウプロジェクトで制作された21の楽曲には時系列が存在し、すべての楽曲が、1つの物語の上で紡がれています。
そのため、多くのリスナーによって、楽曲を時系列順に並べたり、登場人物をまとめたり、いわゆる「考察」が行われました

カゲロウプロジェクトは大ヒットし、それをリスペクトした「プロジェクト系」と呼ばれる楽曲も増加。
それに伴い「楽曲を考察する」という文化ができたのでは、と、私は考えています。


「考察」の現状

近年のボカロ界隈では、「考察」が「こじつけ」化している傾向にあります。

「自堕落」で有名なボカロP、こめだわらさんが投稿したツイートには、3万を超えるいいねがつきました。
ついでに布教しときます…

正直、最近の「ボカロの考察」は質が低下していると感じます。
最初に紹介したサツキさんの記事にもある通り、「とりあえず逆再生してみる」「歌詞を空耳してみる」「投稿日を気にしてみる」のような、粗悪な考察が増えています。

これは、ボカロ曲のリスナーの年齢層が変化したことに由来しているのではと考えています。

2013年の東京工芸大学の調査では、10代の69.0%、20代前半の71.9%が「ボカロ曲を聴いたことがある」と答えており、ボカロリスナーの多くが16~25歳だったと推測できます。
しかし近年は、TikTokでのボカロブームや、スマホゲーム「プロジェクトセカイ」の運営開始などにより、年齢層が下がってきているようです。東京新聞も、ボカロの特集記事にて「リスナーの中心は女子小中学生」と小見出しに書くほどです。

また、どこの記事で読んだか忘れてしまいましたが、「最近の子どもたちは、コンテンツを、現実的でなくても自分がおもしろいと感じるほうに曲解しがち。」という報告があります。
よく例として挙げられるのは、「『ごんぎつね』で、兵十が煮ている鍋の中身」です。ただ食べ物を煮ているだけのシーンなのに、「母親の死体を煮ている」と誤解した小学生がとても多かったようです。
これは、「大人向けのストーリーに慣れてしまっているので、現実的な解釈でなくとも「その解釈のほうが面白い。」と考えてしまう」ことに由来します。
(その記事では、「10年前の小学生は『かいけつゾロリ』を読んでいたのに、今の小学生は『鬼滅の刃』を読んでいる。幼い子供に少年漫画は早すぎる。認知が歪んでしまうわけだ。」と書かれていました。)

この報告は、「粗悪なボカロ考察」にもかなり関係していると思います。「ボカロには、深い意味や隠された秘密が、あればあるほどよい。」という感覚を考察者が持っていたら、こじつけのような考察をしてしまうのもしかたありません。


『「考察」のしかた』について考えてみる

ここからは、この「メズマライザー」の一件から「こじつけではない、『有意義な考察』のしかた」について考えてみようと思います。

①「考察」と「事実」を分ける

「事実」をもとにして、想像をふくらませることを「考察」と呼びます。

例えば、「メズマライザー」だと、

・最後、テトちゃんの目のハイライトがなくなる。
・途中、テトちゃんが「Help me」のハンドサインをしている。
・投稿日が4/27である。
これは「事実」です。

次に、
・目のハイライトがなくなる=催眠にかかっている。
・テトちゃんが何回も助けを求めている=テトちゃんは催眠にかかりたくない。
・4/27=死にな と読める。
これは「考察」です。

これを混同してしまうと、「考察」をまるで「事実」のように扱ってしまいます。
「事実」は、すべてのリスナーに同じように共有されていますが、「考察」はリスナーの数だけ存在し、どれが正しいのかはわかりません。

②その楽曲以外を対象としない

ある楽曲にはある楽曲のストーリーがあり、リスナー側が勝手にそれらを関連付けるのは、やめたほうがいいのかも、と感じます。

サツキさんに限らず、「過去の楽曲までも対象にした考察」に対して声明を出したボカロPさんは多くいます。

「あの春を返して」が投稿されたのは5/1で、このツイートが投稿されたのは4/30。カンザキイオリさんは、この楽曲が過去楽曲、『あの夏が飽和する。』と関係がないことを、楽曲を投稿する前から。つまり、考察が間違った方向に盛り上がってしまう前に明言してくださったんですね。


おわりに

こんな感じでしょうか。

一応言っておきますが、私は考察文化が嫌いなわけではありません。むしろ大好きです。
ただ、「リスナーの行動によって、ボカロPさんが少しでも嫌な思いをするのは避けたい」という思いでこの記事を書きました。

みなさんも、よき考察ライフを。
それではまた。

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