名建築の横顔~丹下健三「ゆかり文化幼稚園」~
ひとつとして同じ風景のない「こどもの城」
「こどもの城をつくる、それが園舎を設計するときのテーマだったんです」
そう語ってくれたのは教務主任の須藤友紀さん。一を聞けば十答えてくれる応対から、須藤さんのこの建築への愛が伝わってくる。
今回取材したのは丹下健三設計の「ゆかり文化幼稚園」。建築家として乗りに乗っていた1967年の竣工だ。
「『園舎に色は必要ない。こどもたち一人ひとりに色があるから』丹下さんはそう考えたそうです。一般的な幼稚園の園舎には、いろんな色やキャラクターがあしらわれることが多いんですけど」
そう言われて園内を見渡すと、確かにコンクリートの白と木材の茶以外、ほとんど色や素材が使われていないことに気づく。
しかし、それ以上に驚かされたのは、事前に抱いていた印象と実際に建物に立って目に入った光景とのギャップである。園庭を囲むように扇状に広がる形式的な計画でありながら、ひとつとして同じ風景が見当たらないのだ。
大小さまざまな教室には、ところどころに窪みのような空間が設えられ、教室同士をつなぐ空間も画一的な通路ではなく、場所ごとにさまざまな表情を見せる。
「園舎を設計する前に、丹下さんは1年間幼稚園に通ってこどもの活動を観察されていたそうです。こどもだからといっていつも元気でいるわけではなくて、時にはひとりでいたかったり、お友達とふたりで静かに遊びたいときだってある。その時々のいろんな気持ちに寄り添いたいということで、いろんな居場所をつくったようですね。細部まで本当に真四角のないデザインになっているのもそのためです」
いろんな空間を用意することは、多目的に使うことだけでなく、多様な空間に応じたさまざまな関係性を育むことにもつながっていく。
この建築全体がこどもたちにとってはたまらない遊び場だろう。まさにこどもの城と呼ぶにふさわしい。
実際、入園当初は園児がいろんなところに紛れてしまって、先生同士トランシーバーを使って居場所を教え合っているという。
最低限行ってはいけない場所は教えつつも、こどもを無理やり拘束することなく自らの意思で教室に戻るよう促すおおらかな対応は、園の理念に基づいている。
園の理念と合致した設計
地下1階、地上4階の園舎には、3歳から6歳までの300人弱が通っている。1学年80名を4名の先生で担当し、さらに細かなクラス分けはしていない。
「その時々の園児の興味に応じて、造形・音楽・言葉・生活の4つのプログラムから好きなことに取り組めるようにしています。自分で考えて判断できる、生きる力を育むことが創立以来変わらない理念なんです」
作曲家の弘田龍太郎、画家の藤田復生、その妻であり同じく画家の藤田妙子という3名によって、1947年に創業されたゆかり文化幼稚園。
「敗戦後の焼け野原のような状態のなか、絵なんか描いている場合じゃない、国のために自分たちができることはなんだろう、と考えたときに、これから日本を支えていくであろうこどもたちのためになにかしたい、という強い想いがあったそうです」
当時の想いが創立から70年経った今でも引き継がれている。
ここで採用されている複数担任制というシステムは日本の幼稚園教育でもかなり特殊なのだとか。続く須藤さんの言葉に、この建築の真価を感じさせられた。
「それぞれの教室は、なんのために使う教室なのか決められていません。いつどの教室を使いたいか、先生たちで話し合って決めています。どうすればこどもがもっと心地よく、面白がって取り組んでくれるかを考えることで、こどもの世界を広げてあげられる。そのためにこの空間でどう過ごしたら面白くなるか、皆で考えながら使っています」
そこに関わる人びとが主体的に建築を使い倒し、建築がしっかりその要求に応じている。1967年の竣工以来50年、ほとんど建物の改変はしていない。
今でも丹下都市建築設計に相談しながら、計画的なメンテナンスを行っている。これだけ大切に使われている秘訣はどこにあるのだろう。同時代の名建築の多くが解体の憂き目に合っている現状について聞いてみた。
「ちょっとこの建物を壊すなんて考えられないですね」
それだけ園の運営とこの建築とは深く結びついている。
「皆で長く大切に使うことができているのは、幼稚園だからというのもあるかもしれません」
卒園生が自分の子を入園させ、その子が大きくなってまた自分の子を入園させる、そういう世代交代がごく自然に起こっているそうだ。
卒園生が教職員として園に戻ってくるというケースもある。須藤さん自身もそのひとり。実は2代目園長のお孫さんにあたる。園舎の設計に際し、丹下健三と直に話をしながら設計を詰めていった、藤田妙子その人だ。
「園の理念やこの建築に込めた想いは、祖母から何度も聞かされてきました。時代に合わせて変えるべきところは変えつつも、次の世代に受け継いでいかなければいけないと思っています」
こういう時代だからこそ、ゆかり文化幼稚園をなくすわけにはいかない。卒園後にここに戻ってくるのは、皆ゆかり文化幼稚園の理念に強く共感している人びとだ。自らが育ち愛着をもつ建築で働く人がいるという事実は、世代を越えて建築が大切にされている大きな要因だろう。
なるほど、幼稚園だからこそ実現できることである。
ゆかり文化幼稚園から学ぶこと
それではゆかり文化幼稚園の、人と建築との幸福な関係性は、たまたま成立している特殊解なのだろうか?そんなことを考えはじめたとき、須藤さんの言葉に光明を見出せるような気がした。
「こどもの教育について熱く語る祖母に、丹下さんは意気投合して延々と語り合っていたんだそうです。園舎の設計もまさか丹下さんにお願いできるなんて思ってもいなかったようですが、丹下さんの方から僕がやる、とおっしゃっていただいたみたいで」
設計の段階においても、妥協のないやり取りが行われた。丹下が作成した図面に、藤田が入念に赤入れをする様子も写真として残っているそう。設計のプロと教育現場のプロ、それぞれが力を尽くすことによってこの園舎はつくられた。
当時の丹下健三といえば、代々木の国立競技場を完成させ重要プロジェクトを多数手がけていた。大先生と恐縮してしまってもおかしくはないが、信頼関係が築けてさえいれば、多少のぶつかり合いも、より良いものをつくるために必要なプロセスに過ぎないのだろう。
建築をつくるとき、どのような場合であってもそこには人の営みがある。
その人に触れ、理念に触れ、その理念のために最良の判断を積み重ねていく。
機能や性能を満たすだけで満足してしまう設計では到達できない、時代を越えても変わらぬ正攻法を、この建築は教えてくれた。
初出:建設の匠(現:建設HR)
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