祖父について【ヤバさ:★★★☆☆】①
暴君。家族が語る祖父像は、この一言に尽きる。祖母が認知症を発症した当時、私は自責の念も込めて「ストレスかな…」と呟いた。すると叔母(部屋に籠りきりで海外ドラマを見るかツムツムに興じるかのどちらか。家事はしていない)は「あぁお祖父ちゃんだね」としたり顔で述べ、母(一日の大半を彼氏の家で過ごしていた。彼氏の家の家事はする)も「そうだねぇ…ずっと我慢してきたからね…」と合わせた。さすが倫理観欠落シスターズである。祖母は足が悪い中で掃除、洗濯、料理といった家族8人分の家事を一人でこなしていた。祖母の認知症がストレスから来ているとしたら、勉強ばかりにかまけて手伝おうともしなかった私含めて家人全員に責任があったと私は思うのだが…。ちなみに私が親子関係に悩んで不安障害を発症し毎食10錠ほどの安定剤等々を服用していた頃、母は病の原因を「RONIは頭がおかしいから」と片付けた。現在私は右乳房全摘手術後の痛みで一日3錠ロキソニンを服用しているが今の方が余程心配してくれている。
しかしやはり孫から見た祖父の姿と、シスターズから見た私の祖父────つまり父の姿は多少…いやかなり異なるようで、その暴君エピソードは枚挙に暇がなく、某実力派芸人七人によるトーク番組に祖父が出演することになったとして、その暴君ぶりをフリップにして捲っていったら番組放送時間に収まらない程である。
まず私が聞きたくなかったのは、叔母が話した祖父と祖母の夜事情である。叔母は基本的に聞きたくもない話を嬉々として語る癖がある。私がデキ婚のデキモノであると知らせてくれたのも彼女である。いったい誰が、自分の祖父母のそんな込み入った話を聞きたいと望むだろう?聞かされてしまった以上それはもうネタなので書くしかないが、祖父が祖母を夜のダンスに誘ったときのことである。祖母は大変疲れていたので「今夜は踊れないわ」と断ったという(イメージです)。すると祖父は怒り狂いあろうことか祖母の頭を蹴りあげたのである。これが本当にダンスで、しかもタップダンスだったとしたら祖母の頭はカチ割れていただろう。(あれ?認知症の原因これ?)それを孫である私に話す叔母も叔母だが、なぜ祖母は娘である叔母にこんな話をしてしまったのだろう…?このエピソードが一体何歳くらいの時の話なのかは知らないが、私が産まれる前であって欲しいどうか神様。
そしてもう一つは私の母に纏わる話である。母の名前は旧暦の月の呼称である。そうするとだいたい弥生、皐月、葉月辺りを想定されるかと思うが、まぁその3択のどれかである。しかし母は12月生まれである。無論、師走ちゃんではない。当然、幼い頃はこの違和感に気付かなかった。しかしいつからか母の名前を聞かれる度に「じゃあお母さんは春生まれだね」と言われるようになった(さぁ2択に絞られましたね?)。「違うよ12月だよ」と言うと相手は常に「あら、そう…」と釈然としない顔をした。そうして私も高校で古典に触れ、彼らのスッキリしない顔の理由を知った。そこで頼るべきは叔母である。この人は何でも喋るとその頃には学習していた私は母の名前の真相を尋ねた。叔母はあっけなく答えた。
「お祖父ちゃんの元カノの名前だよ」
「あら、そう…」。母は第一子である。私が祖母の立場だったら娘のことを「例のあの人」と呼ぶかもしれない。まさに「名前を言ってはいけないあの人」的な。だが祖母は認知症になった今でもちゃんと母を名前で呼ぶ。こんな聖人がいますか?そんな名付け方をされた母だが、私も母に自身の名前の由来を聞いたことがある(もちろん本名はRONIではない)。母はさぁ喜びなさいとばかりに言った。
「玉の輿に乗れますように、って付けたよ」
産まれ出づるころより金目当ての女、それが私である。ちなみに父に結婚の挨拶をしたとき、父は夫にいかにも重々しい口調で「こいつの名前はな、万葉集から取ったんだよ。万葉集から名前を取ると幸せになれるんだ」と宣った。幸せってお金のことですねお父さん。なお私たち夫婦は公立校教員カップルである。玉の輿かどうかはネットで簡単に調べられるので各自の判断にお任せする。また、私の名前が令和ちゃんではないことも念のため付け加えておく。
他にも祖父の楽しいエピソードとしては、ピンクのオープンカーに乗り喫茶店のウエイトレスだった祖母をナンパしたのが馴れ初めだったとか、化粧をしない母に「みっともねぇ、俺の隣を歩くな」と言い放ったとか、友達の保証人になったばかりに自営していた板金屋を失ったとか、なかなかホットなものが揃っている。
このような暴君たる印象は私にはない。私が抱く祖父の印象、それは、毎日夕飯に文句を言う人である。
「にゃんだこりゃ食えにゃーじゃにゃーか!」
夕飯時この言葉を何度聞いたことか。字面で見ると祖父が猫耳を付けた萌え老人のようで可愛くも気味が悪いが、実際はかなり荒々しく萌えの欠片もない罵倒である。上にも書いた通り、我が家の家事の全ては祖母が担っていたため、私にとって「家庭の味」は祖母の料理である。祖母は小料理屋やレストランの勤務経験が豊富で料理が好きだった。そのため多少手が込んだものも頻繁に食卓に現れ、私は毎食大満足であった。特に唐揚げは絶品で、生姜とにんにくのバランスが程よく、若い頃の私は大皿一枚くらいペロリと平らげた。祖母の唐揚げを越える唐揚げはたくさんあるのだろうし、私も実際出会っているが、私が好きなのは祖母の唐揚げである。
だがそんな祖母にも不得手とする料理があった。焼き魚である。どんな魚もなぜか祖母はカーボンアートな感じが出るまで火を通さずにいられなかった。そこが、漁師町育ちの祖父の気に入らなかったのだろう。しかも祖父が魚好きなので焼き魚はほぼ毎晩出た。そのため上記の台詞は頻繁に食卓を重苦しい空気にしたのである。私は物心付いた頃から祖母の焼き魚に慣れていたので、給食に出てくる塩鮭など何かヌラヌラとしてどこも炭になってないので気持ち悪く感じたほどだった。
祖父は私に優しかったので好きだったが、この時ばかりは祖母の気持ちを思うと腹立たしかった。祖母はそんな祖父にいつも「うるしゃあ男だね」と諦めを含んだ声で応酬していた。
私が好きな祖母の家庭料理…一番は唐揚げであるが、その次はエビフライである。祖母は私の小学校6年間、運動会の度に早朝4:30に起きて大量のエビフライを揚げてくれた。それを四段のお弁当箱の一段目に白米の代わりかと思うくらいたくさん敷き詰めてくれた。塩コショウが効き、海老の身がプリプリに引き締まったそれは本当に美味しく、運動神経というものが標準装備されなかったため運動会が大嫌いだった私の心を6年間支えてくれた。
エビフライはそんな運動会の特別な食べ物であったため、一番下の従妹が中学に上がると食べる機会がぐんと減った。たまにエビフライが食卓に現れても、それはもう冷凍の、やたら甘ったるい衣がついたモノだった。祖母も老いと共に手の込んだ料理が辛くなっていたのだろう。
だが私が大学生の頃、一度だけ祖母が以前のように一から、ブラックタイガーでエビフライを作ってくれたことがある。私は狂喜乱舞して一人辺りの取り分を瞬時に計算してかぶり付いた。久しぶりの祖母らしい塩気とブラックタイガーの実力に満足してると、祖父がぼそりと言った。
「尻尾も食べろよ」
祖父は暴君であるが、我々孫には滅多に指図をしない人だった。私はその言葉が、祖父の祖母に対する精一杯の「愛してる」に聞こえた。海老の尻尾は薄いプラスチックのように口の中で味気なくモソモソとしたが、私は何故か誇らしい気持ちで飲み込んだ。
その後祖母は認知症を発症し、もう唐揚げもエビフライも作れなくなった。揚げ物などもう危なくて任せられないのである。何でも忘れてしまうから。しかし一昨年の夏、母はLINEでこんなことを言った。
「おばあちゃんね、おじいちゃんが癌になったことは忘れないみたい」
夫婦の愛って何だろう。祖父は祖母に対し長年暴君であった、らしい。しかし今祖父は癌により人工肛門になり肺にも転移巣を抱えた身体で、認知症の祖母を支えている。「おばぁの頭はもうダメだな」と毒づきながら。
次回はそんな不器用な祖父が、孫の私にはどんな愛をくれたか書こうと思う。
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