六郎さんについて【ヤバさ:★★★★☆】②
大学2年の頃、メタメタに病んだことがある。
高1で遅めの初カレを得た私はそれまでの親からの愛情不足をすべて精算しようとするが如く典型的な重い女になった。自分で意識して彼を束縛しようと思ったことは一度もなかったが、メールを送って5分返事がなければ手汗が滲み動悸がしてくるので、健康を守るために仕方なく返信催促のメールで追撃するしかなかった。返信を待つ間の軽い吐き気を伴ったソワソワ感は調度この前の3月に乳がんが確定し毛布に巻かれてPET-CTの筒にブチ込まれたときの感覚に酷似している。そのように濡れたての子猫の如くか弱く心細い思いをしているくせに、ポッチャリ体型のバスケ部万年補欠君に翻弄されている(実際はただメールを待っているだけ)という事実を受け入れられないプライドだけは恋愛強者のそれだった私は、追撃の末ようやく貰えた返信に対し「私のことはどうでもよかったんだね。なかなか返事ないから後輩の男子とメールしてたよ」等と誤答の帝王のような返信をかます痛い女であった。今さらだがこんな私と高校生活の大半の時間を過ごしてくれたR太くんありがとうごめんなさい。
2年9ヶ月に渡るR太くんとの交際を終えても(もちろんフラれたのは私である)私にとって恋愛とはメールを5分ごとに送り合って愛を確かめ合うものだという認識は変わらなかった。件名に重なっていく「Re:Re:Re:Re:Re…」こそ好きのバロメーターである。余談であるが夫と出会ったばかりの頃、一目見た瞬間から夫と何らかの形でお近づきになることを密かに計画していた私は、夫が大学時代にやたら連絡を欲しがる後輩女子にストーキングされて病んだ話を聞かされ大いに肝を冷やした。
そんな恋愛観のまま大学1年の終わりに男友達と弾みでワンナイトラブ未遂(しかも現場はカラオケボックスとかいうネジの飛び様)の末に交際することになった。彼は元々別の清楚で可愛らしくこの世の瘴気には一切振れたことのないような女子に長らく片想いしていた。私は私で1つ年下の国立大学を目指して受験勉強に励む後輩と交際したばかりであったが、あまりに会えずメールも返ってこなかったため男友達で暇を潰してしまった。前記事で母のことをいろいろと書いたがその遺伝子は間違いなく受け継がれていたのである。
しかしそんな妥協と人恋しさだけで始まった恋愛で絆など生まれるわけもなく、半年も経たないうちに彼からのメールがなかなか返ってこなくなった。メールの減少は愛情の減少である。私は焦りと恐怖からバクバクする動悸を堪えつつ追撃に追撃を重ねた。軍隊であれば最強だが彼女としては最悪である。追撃の末、ようやく一通の返信をもぎ取ったと思ったら、その文面は以下のようなものであった。
「俺ら合わないんじゃない?」
必死で追撃したのに…なんて哀しき戦利品だろうか。こうして私はありふれた失恋をした。
そして私は悟った。このままではどんな男…いや、どんな人でも私の前から去っていく。親からの愛情不足を他で埋めるのはもうやめなければ。
私は普通じゃないんだ。
そこからは早かった。私は次第に大学に着いても講義室に入れなくなり、駅に行っても電車に乗れなくなり、とうとうどうせ単位を落とすならと休学することに決めた。
休学してまず最初にしたのは、心療内科の予約と染髪であった。休学の手続きをした帰りに私はオウムの写真がデカデカと印刷されたパッケージのカラー材を買って帰った。人生初の染髪。選んだ色は、そのオウムと同じ赤である。
変わりたいと思う時、手始めに一番手頃な手段として容姿を弄ることは良くある話だ。あれから10年が経つが私は今でも似たような手段で自分を変えようとしている。随分とご無沙汰している間に私は酷い病理診断結果を受け抗がん剤を始め、一回打っただけで肝機能がやられ髪だけがただただ虚しく去っていったが、ピンクや金、ブルーグレー等のウィッグを買い集め原宿系がん患者を原宿とはほど遠い富士の麓で目指そうとしている。余談だがこんな私も来月には30歳の一児の母である。教員というお堅い職業ランキング殿堂入りの身では決してできないことをしたい。大手を振って派手に闘病したいのである。
例の通り前置きが長くなったが、容姿を変えることに関してこのようにイタい積極性がある私なので、六郎さんの背中に鯉を抱き締めた金太郎の輪郭が現れたときもあまり驚かなかった。
ここで念のため付け加えておくと、六郎さんの職業は堅気である。籍を入れようともしない母に家を建ててくれた色んな意味で懐の深い六郎さんは運送会社の社長をしており、加えて近年焼き鳥屋も開店した。信じられないくらい稼ぎ信じられないくらいその財を母につぎ込んでいる。
あれは昨年の9月半ばのことである。出産予定日と夫の繁忙期が重なっていたため私は嫌々ながら里帰り出産を決めていた。しかしその頃から実家が解散しかかっていた私に里はない。あるのは赤の他人が建てた母が住む家だけである。私は六郎ハウスの2階の客間をあてがわれた。
六郎ハウスの暮らしに慣れ始めた頃、妊婦健診に向かう車の中で母が何か決心したように話し始めた。
「六郎ちゃんがさ、背中に墨入れてるんだよね」
「あぁ、タトゥー?」
「違うよ!!和彫りだよ!!!」
何でも、昔から任侠ものの映画をこよなく愛していた六郎さんは、ついにその愛が溢れだし齢53にして一大決心をし背中にモンモンを背負うことにしたそうである。あらまぁ。
しかもどうやら従業員でもある息子たち二人には内緒でことを進めているらしい。知っているのは母と、六郎フレンズと、私。守る価値もなければバラす旨味もないまったく要らない秘密を背負わされてしまったわけである。
ある夜六郎ハウスの1階に降りると、ちょうど焼き鳥屋を閉めて帰宅した六郎さんと母に出くわした。六郎さんの背に何があるのかを私が知っていることを知った六郎さんは、角ハイボールのグラスをカラカラ言わせながら酔いの回った口調で絡んできた。
「もうお母さんから聞いたと思うけどさぁ…俺今入れ墨掘ってもらってんの」
「あ、あぁ、そうみたいですね!」
「人生一回しかないからさぁ、やりたいことやろうと思って。見せてやるよ!」
すかさず母の「ちょっとやめなよ!RONIちゃんも見たくないって言いな!」という「やめなよ男子ぃ」的ノリの声が飛んできたが、私としては赤の他人なのに借り暮らしさせてもらっている義理を感じていたので断ることもできず、「え、あぁ、いやいや…」とコミュ障丸出しの煮えきらないにも程がある反応を返すしかなかった。すると六郎さんはこの反応を肯定と捉えたらしくARMANIのTシャツを張り切って脱ぎ去った。おぉ、確かになんか描いてあるなと思ったのも束の間、六郎さんは目の前でARMANIのボクサーパンツも脱ぎ去った(六郎さんの全ての衣類はARMANIである)。私はあまりに無知であった。その道では背中というのはケツまで含まれるのである。六郎さんの肩からケツの下にかけて、巨大な鯉と金太郎だという青年がプロレスを繰り広げていた。彼らの周りには紅葉が無数に散っている。からくれなゐにみづくくりそうな勢いである。その壮大な柄が黒い輪郭線で縁取られていた。
「ワァ、スゴイデスネ」
中年男、しかも母の恋人の尻を前に私の声は強ばった。心なしか8ヶ月の迫り出した腹も張り出した気がした。尻の割れ目の間から覗くものが何なのかは神の見えざる手で頭をぶん殴ってもらって思考から追い出した。
「これにこれからどんどん色を入れてくんだよ」
六郎さんはウキウキと続けた。
「そうですか…楽しみですね…ハハッ」
「ここまででだいたい100万。色入れて完成したらだいたい300万かな」
えっ。くれよその300万。金持ちの道楽は凡人には理解しがたいなと思いつつ私はしまわれていく尻を見送った。
それから私の腹が迫り出していくにつれ、六郎さんの背中も次第に色付いていった。私は夜中に六郎さんと遭遇する度に知りたくもない進捗を報告された。妊婦が他人の中年男の尻を見せつけられる事案が繰り返し発生した。
月日は流れ、尻を見る度に張っていた腹からも無事に息子が産まれ、里帰りを終え平和な日々を送っていたはずが乳癌が見付かった。
通院や入院のため、私は今度は息子と夫と三人で六郎ハウスに世話になることになった。
手術を終え数日経ったあるとき、夜中にミルクを作るため一階に降りると、一人で晩酌をする六郎さんに遭遇した。アロワナの水槽くらいデカいテレビの中ではケジメのために簡単に命が奪われていた。六郎さんは酔ったフワフワした口調で始めた。
「RONIちゃんさ、明るくね、前向きに生きなきゃいけないよ」
この手のことは癌の疑いが出て検査をし告知を受けるまでの一ヶ月半泣いてばかりだった日々からずっと言われ続けたことだったので、私は「そうですね!」と爽やかな笑顔で聞き流していた。しかし次の一言に私は耳を疑った。
「RONIちゃんも手術してまだ傷が痛いと思うけど、俺もそれは同じだから。俺も背中の傷が痛いけど一世一代の勝負だと思ってやったんだから。RONIちゃんと同じ」
トンデモ理論爆誕である。いや、貴方の背中の傷は好きで付けたものでしょう…。貴方の場合は堅気なのに要りもしない傷を付けてわざわざ自分から生きづらくなったんでしょう…。私は容姿の変化を好む方なので、片乳がスッと傷が入った平乳になったことを割りと気に入っている。しかしもし私が、胸の傷を深い心の傷として抱えた乳がん患者だったらこの言葉をどう捉えたのだろう。
私は「ヤベェ奴だな」という感想を胸に適当な相槌を打って早々に引き上げた。
この他にも六郎さんはがん患者にとってはあまりにも哀しいトンデモ迷言(「乳がんなんて風邪と同じだから!」等)をいくつか残している。
ヤベェ奴らに囲まれて育った私はまぁこんな人もいるだろうと六郎さんのことを心の中のヤバい奴らアルバムにしまっているが、善良な人々の中で育った夫はどうしても六郎さんを受け入れることができなかった。六郎さんも六郎さんでハイパーインドア夫婦の我々の陰キャ振りにブチギれ、我々はフォッサマグナ並みの深い溝を残し今に至る。
そんな六郎さんだが、私の癌がわかった当初は
「俺にとってRONIちゃんのお母さんはすごい大事だし、だからRONIちゃんのこともすごい大事。遠慮しないで頼って」
と有難いトンデモ理論を展開してくれていた。
ただ、やはり赤の他人はどこまでいっても他人だ。「まぁ腐っても家族だし~」という諦めに似た寛容は真似事で産まれるものではない。本来ならまったく調和するはずもない異質なタイプである我々家族の衣食住の面倒を、一時だけでも見てくれただけでも六郎さんには感謝している。
前記事から相当間が開いてしまったが、この辺りの心労もあり筆が進まなかった。もし待っていてくださった方がいたなら本当に申し訳ない。
次回は(これもいつになるか保証はできないが)孫の誕生の知らせにおめでとうスタンプだけで答え、娘が癌になるまで一切孫に興味を持たなかった世にも奇妙な父の話を書こうと思う。
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