暴力的な躾をしていた父は、本当の父ではなかったのかもしれない②


 要因は3つあると考える。父の仕事、受けてきた家庭環境、住居の3つだ。

 

まずは、父の当時の仕事の状況を考える。

 父は大手通信企業の技術職であり、毎日朝6時前には出勤し、残業がなければ19時前後、夜中0時過ぎに帰ってきたことも多くあった。父は昇進しようと頑張っていた。

 もともと九州の奄美大島の出身で、島を出て名古屋で働き、大阪で友人たちと頑張り、仕事を辞めたいと思った自分を奮起させるため家庭を持とうとしたところ母と出会い結婚し、昇進への道に傷をつけないよう東京転勤を受け入れ地縁のない関東にきた。関東へ移動するときはすでに私は2歳、弟は生まれたばかりの0歳であった。母も、大阪の親元を離れて友人も誰もいない東京の社宅での2児の育児は大変だったであろう。

 東京からの転勤がなさそうなので、そのうち郊外に家を買い、父は住宅ローンも抱えた。辞めたいと思っていたが家庭を持ち家を買ったことで、辞めることはできなくなった。そうやって自分を奮い立たせて頑張っていた。

 しかし、私が中学生くらいの頃だったか、父が傷心で帰ってきたことがあった。昇進できなかった、自分じゃない誰かが、父の狙っていたポジションになったのだ。確かそんなことを、わからないままにチラッと聞いた気がする。

 父の頑張る理由が消えてしまった。

 当時の父に、仕事以外にやりがいのある何かがあれば、そこまで大きな喪失感に繋がらなかったのかもしれない。正直、働く時間が長かったので、父は自分の時間をほとんど持っていなかった。仕事以外に頑張れるものが何もないのに、自分の希望が叶わなかった。道が絶たれてしまった。しかし、家庭もある住宅ローンもある、だから仕事は続けるしかない。真面目な父はそう考えていたと思う。それが大きなプレッシャーになり、長時間労働が苦痛になり、遠距離通勤も気力を奪っていったように思う。


 つまり、仕事でのストレスが父の性格を変えてしまったのだ。

 こうならないようにするには、長時間労働の是正(既に時代は是正の動きである)と、満員電車の解消、通勤時間の短縮(これも時代が進みリモートワークなどが世に広まってきている)が必要であり、昨今叫ばれている労働改善の動きは、こういった父のような人間を令和の時代に生み出さないよう絶対に必要なのである。



 次に家庭環境について考える。

 父の生い立ちに関して、わかる範囲で羅列しよう。

 父は1961年に奄美大島で6人兄弟の5番目、三男として産まれた。

 祖母、つまり父の母は、生粋の奄美の人間で「本土の人間は信用ならない」と考えていた人だった。当時の奄美大島はまだアメリカから返還されて数年が経ったばかりだった。もともと奄美大島は、沖縄と共に日本に返還されることを望んだが、沖縄の方の足並みが揃わず奄美大島だけが早々に返還され、そのせいで、まだ占領下の沖縄に出稼ぎに行けば、本土の人間には税優遇されるものがなぜか奄美の人間は虐げられ、それが1970年代の沖縄返還まで続いたそうだ。

 だからであろうか、祖母は本土の人間は奄美のために何もしないと考えていたようで、自分の6人の子どもたちの配偶者も、本土の人間が来ようものなら冷たくあしらった。

 大正生まれの祖母は「台所に男が立つとはみっともない」や「父親が食事やお風呂を済ませるまでは妻子は食べないしお風呂に入らない」と言った家父長制時代の教育を6人の子どもたちに施した。祖父は、大工の棟梁として、また島の消防隊として忙しい日々を過ごし、子育てには参加せず、飲めや騒げやの宴を家で行うことも多かったようだ。

 そんな生活に嫌気が差したのか、父と一回り異常離れている長男は、15歳頃に出て行った。家に友人がバイクで迎えにきて、窓から飛び出てそのまま帰ってこなかったらしい。次男がその後ずっと長男の役割を果たしてきたようだ。のちに長女と次女は結婚して本土へ嫁ぎ、三男であった父も島を出て就職した。島に残ったのは、次男と末っ子の四男だけで、次男は生涯独身、四男は本土から嫁いできてくれた奥さんと暮らし、結局祖母のいう島の人間との結婚は誰1人しなかった。

 父は就職する時、本当は料理人に興味があり、こっそりと専門学校に志願書を出そうとしていたのだが、祖母に見つかって目の前で破られた。父は、祖母に、祖父のような不安定な職種ではなく、安定した会社員になることを望まれ、そうであればと当時の仲間たちが進む進路に一緒についていったそうだ。

 父自身がこのように育ってきて、いきなり時代の流れと共に家庭の持ち方を変えることはできなかったのであろう。どうしても父親の権威というものを示そうとするものの、それは躾という名の暴力でしか示されなかったように思う。

 父の思惑通りにならなかったのは、単純に、父の仕事が会社員で、働いている姿を子どもに見せる機会が全くなかったために、ただただ「怒る」ことが権威を示す手段かのようになってしまったこと、母が関西出身の普通の家庭の女性で、家父長制の教育をそこまで厳格に受けてこなかったことなどが要因であろう。

 要は、父が育ってきた家庭環境をそのまま平成の時代に当てはめようとして齟齬が出て、その歪みから暴力が生まれてしまったように思う。そんなことをしなくても、父親を尊敬する瞬間はたくさんあったであろうに。

 今は子どもの人権が尊重され、また暴力による躾、つまり体罰は2019年6月から法律で禁止されている。自分が家庭を持った時に、どうしても育ってきた家庭環境を念頭において家庭を構築していくかもしれない。しかし、時代は変わるし、下手したら自分の育ってきた環境が法律違反になることだってある。親も子を生んだら勝手に親になるのではなく、自ら学びどういう家庭を構築するのか、経験則からではなく、知識を根拠に考え続ければならないものなのではないだろうか。


 最後に住居に関して考える。

 父が構えた自分の城は、通勤先の新宿から1時間半以上離れた埼玉の郊外の建売戸建であった。駅からも徒歩20〜25分離れたところにあり父のトータルの通勤時間は2時間ほどであったと思う。これは先に取り上げた労働環境の過酷化につながった。
 

 物件自体は当時のよくある間取りで、玄関から廊下が伸び、すぐ左側には階段、階段と反対側のドアを開けたところにリビングダイニング、隣に和室、キッチンはやや個室のようになっていて、水回りは1階に固まっており、寝室や子ども部屋になりそうな部屋が2階に3部屋、そして狭めの駐車場がついた普通の4LDKである。
 

 間取りの問題だけ取り上げると、この玄関からリビングを通ることなく2階に行ける構造は、家族のコミュニケーションを希薄にするという論文もある。

 実際に私は、父親が帰ってきた時に顔を見ることなく階段の音で不機嫌かどうか感じ取る毎日はストレスだった。また、父もしくは弟がリビングを占領しているとなんとなく感じれば、階段を静かに降りて、バレないように玄関から出て行くというのも、今思えば、家族とのコミュニケーションを容易に避けられてしまうので、家族の相互理解が全く進まなかったように思う。

 父自身も、コミュニケーションが希薄化するこの家で、休日子どもがいつの間にか家からいなくなっていたら、いつどうやって子との他愛のない会話をし、子が何を考えどういう性格をしているのか、確かに解らなかったであろう。父が思う子ども像と、実際に生きている私たち子どもが、どういう風に違っているのか、それらを知る機会がこの家の中では少なかったように思う。

 また、この住宅を父は30代半ばの時に、ここだけを見学し即決しその日のうちに契約したと豪語していた。家をもったら一人前だと言われていた時代に、持ち家を持つことができたんだと誇らしかったそうだ。住宅のことを母と全く何も相談せずに勝手に購入してしまったことが、母の後々の不満点になるのだが、とにかく父は購入した高揚感に浸っていた。

 しかし、当然に、もう少し慎重に検討した方がよかったように思う。この物件は、今思えばだが、当時の時代からしたら少し割高の値段ではないかと思う。もう何軒かと比較検討してからでも遅くはなかったはずである。結果的に、父は通勤時間が伸び、家で休まる時間を確保できず、住宅ローンの責務から仕事を辞めることも難しく、子どもと顔を合わせる時間もなく、全く寛げない家庭空間を作り上げてしまった。

 これらの要因が複雑に絡み合って、父というものを作り上げてしまったように思う。


 しかし、カウンセラーを自ら受け、仕事のプレッシャーから解放され、定年間近であることから自分の時間が増え、徐々に自分を取り戻していった父は、なんとよく笑うことか。

 もともと父は新しいことが好きで、人との会話が好きな人だ。何事にも好奇心旺盛で、外の世界を知りたくて島を出たくらいなのだ。最近は、マラソンにチャレンジしたり、山登りに新しくチャレンジする父を見て、驚くことが多い。

 初孫をあやす父親の姿から、自分たちに手をあげていた父の怖い姿は全く想像できない。とんでもなく陽気なおじいちゃんなのだ。子どもは泣くものだと私に諭してくる時は、思わずどの口が!って言いたくなるのだが、その気持ちを上回るくらい、今の父は過去の父と違うのだ。子どもと良く遊び、笑い、話しかけ抱っこするその姿を見ると、もしかしたら私の知らないところで私自身もそうやって育てられていたのだろうか?と思ってしまう。

 これが本来の父の姿だとしたら、仕事や教育や住居は恐ろしく人を変えてしまう。環境というのは本当に大事なのだ。人生が大きく変わってしまう要因になりうるのだから。

 

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