生きること、学ぶこと


(問い) 再び、「想像力」とは何か?


 
大江健三郎は作家で生きていくと決意した時に、自分は「想像力」をテーマにして本を読んでいこうと考えます。そこで、大江を読むこと自体も、想像力を働かせることになります。大江は「懐かしい年への手紙」などでT・S・Eliotから多くを学びますが、Eliotは、ロマン派のColeridgeの「文学的自叙伝」に「想像力」の深い思考があると評価します。
 
想像力は、一つは、注意深く観察することと自分の体験と関連づけることで見えないものと対峙する力です。これは新しいものとの出会いです。見えたものを異質なものと結びつけて新しい文脈を形成することがその次の機能です。その結果、想像力は統合されて質的な変革が行われていきます。それまでに学んだものとは全く別のものになっていくのです。
 
また、サルトルをあげて、自分自身を超えてゆく向こうに到達点が見えるのではなく、只ひたすら不完全なものから自身の核心にむかって自分自身を超えてゆく。しかし人間の現実は欠けている状態を決して脱することはできない。この繰り返し、繰り返し、自分自身を越えようとする中で想像力を使っていると評します。
 
さらに想像力の大江的な定義としてガストン・バシュラール(「空と夢」冒頭)「想像力とは、イメージを形成する力ではなく、むしろイメージを歪める能力である。それはわれわれを基本的なイメージから解放し、イメージを変える能力である。」と考えます。
 
これは想像力をどのように使うかという問題でもあります。
すなわち、到達できないようなものに向かって自分を投げ出すことができない時は本当に想像するという行為は生まれないのです。
 
鶴見俊輔が言うように、自分で問題をつくることなく過ぎると、問題は与えられるものその答えは教師が知っているものという習慣がついてしまいます。社会が求める〇〇像と極めて抽象的な人材育成を掲げて目標とする国の昨今の提言は、どこか歪んでいないでしょうか?人間の姿を考えるのがそもそもの教育ですから。自由であれ!個性をのばせ!とは真逆の方向ではないでしょうか? 

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