生きること、学ぶこと

(問い)「問い」の形式化とは何か?


こんなテーマを考えてみました。
 
 近代的主体性の哲学の出発はデカルトであり、学校教育での主体的学びの
実践についてはデューイ『論理学:探究の理論』に始まるということはさて置き、柄谷行人の教育に関する主体について次のように述べます。「教育は親子関係です。しかし、親(教師)は子(生徒)に対して決して優位ではありません。結果を出せるかどうかは教わる側にかかっているのです。だから親(教師)は命懸けです。」柄谷は学びは他者性からスタートすると考えます。学修者は未知の向こうの世界を知るために飛躍的にジャンプをしなければならないという教育が行われる環境の難解さを指摘します。
 歴史学者の小田中直樹は、学校教育の教材に柄谷が指摘する難しさが存在していると言う。「その教わる側が根拠とする教科書は「欠如モデル」に基づいて作られています。教える側が正しいと考える内容を伝える形になっています。すなわち、学校教育は学修者が受け身になる仕組みが根底にあります。」従い、簡単には、暗記型の学修を改め、自ら問いを立て、考える力に重点をおき、探求を重視するとことにはなりません。受験教育で、暗記による学習を習慣化してきたことからの脱皮はそう簡単ではありません。だからデューイらが基礎を築いたPBLやTBLの継承発展、その成果を踏まえた今日の反転授業やカナダの教育改革を促したICEモデルのもたらす意味を感じます。
 
 そうした中で、小川幸司が、「問い」の形式化ということを指摘する。授業で知識の詰め込みは学修にはならないということから、脱講義型やグループ活動型の授業の一つに、学修者に問いを考えさせることを通して議論を進めるスタイルが実施されています。しかし、問いを考えさせて、議論をすれば深い学びになっているかというとそれは違うのではないか。問いを使う授業の落とし穴について考えます。
 
そもそも問いは、それぞれが自然にうみだされるものです。しかるに、教える側の思惑で太字にしたり要約したりして問いの方向性を促している。これは問いを活用した深い学びとは逆の方向になってしまいます。
 
同じ傾向として問いの設定の問題。よく考えると教科書記述に答えがあるような問いが多い。これは文章読解力が問われているに過ぎない。生徒の深い学びにつながらない。教師が単に問いを提示しているだけで、生徒が自ら問いを掘り下げることができない場合、議論や学修の質が低くなります。問いは、生徒たちに主題に対して探求心を起こさせ、自発的に調査し、考えることを促すべきです。論点を促す問い、批判的思考を養うための問いなど、さまざまなタイプの問いを組み合わせることが重要です。
 
もう一つは、生徒同士でディスカッションした結果、「いろいろ意見があるよね。考えさせられるよね。」と人にはさまざまな意見があるということでおわり、「真理からは遠ざかる」ものが多い。生徒同士のディスカッションによって、多様な意見が出されることは大切なことです。しかし、意見の相違があるだけで、議論は踊るされど進まず。ただ単に多様な意見を共有しただけで学修が不足する可能性があります。これなら一方通行の方がまだ良い。教師の役割ということです。議論の中で批判的思考や論理的な考え方を育むような指導を行うことで、学修の質を高めることができます。
 
 問いを使った授業は、適切に設計・実施されることで、生徒の深い学びや批判的思考を促進する強力な方法となります。落とし穴を回避するためには、教師の授業設計で「問い」の形式化に陥らない工夫が必要ですね?

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