読書メモ「オスカー・ピストリウス自伝」

罪を犯した俳優の出演作品がお蔵入りになることに疑問の声があがっている。そこまでの対応を、誰が望んでいるのだろうか?と僕も思う。

たまたまこのタイミングでオスカー・ピストリウスの自伝を読んだ。両足義足の短距離ランナーで、2012年ロンドンではパラリンピックだけでなくオリンピックにも出場したアスリートだ。日本ではその年末に出版された著書だが、翌年の3月に恋人を射殺したとして逮捕され、話題になりきらないうちに消えていった。(その後裁判は2017年まで続いており、最高裁が禁錮13年5ヶ月の判決を出したことで一旦の区切りとなった。)

彼の罪は殺人という重罪ではあるが、ドーピングのような競技に関する違反ではないため、持っている記録もパラリンピックでのメダルも取り消されてはいない。自分としても、事件のことは置いといて、この他に類を見ないスプリンターの半生に興味があり、ようやく手にとったわけだ。

当時、瞬間的には世界的な英雄であり、あまりネガティブなことは書かないようにしたのかもしれないが、両足を子供の時に切断したこととそれによる障害については驚くぐらい前向きで、苦労したことはほとんど述べられていない。どちらかというと無鉄砲な行動で事故を起こしたりという話の方が目立つ。

ただ、義足が規則違反の可能性があるからオリンピックに出られないと言われたときの戦いについては詳細に書いてある。義足が記録を出すことに対して有利ではないことを証明しないといけないという、大変難しい問題への解決に、貴重な時間と力を割かざるを得なかったことはアスリートとして不本意ではあっただろう。

しかし、こうやって「非使用者より有利になる人工的装置」ではないことの証明に苦労したアスリートがいる一方で、近年「履けば記録が伸びるシューズ」がもてはやされるのは、滑稽にも感じられる。実際に効果があるかどうかは別として、装置で有利になろうという意識自体が違反であると言えないだろうか?

ピストリウスがなぜオリンピックに出ることにこだわったのか?

パラリンピックに不満があるわけではない。でも、オリンピック出場の条件である参加標準記録を上回る記録を残しているのに、どうして両方に出場することが許されないのか納得できない。

彼のモットーは ”You're not disabled by the disabilities you have, you are able by the abilities you have.”だそうだ。何ができないかより何ができるか、というニュアンスと勝手に解釈したが、オリンピックに出られるのなら出たい、というアスリートとしての純粋な希望であったと思う。


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