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多様性を認める社会とは

多民族国家の実態

オランダやシンガポールは「多民族国家」として世界的に認知されている。様々な人種が住んでいる国、という意味では間違いないだろう。しかし、実態はそれぞれの人種が仲良く分かりあっている、というよりは「お互いの文化にあまり踏み入らない」という形で平和を保っている。

私はシンガポールに4年近くすんでいたことがあるが、シンガポールは中華系、マレー系、インド系などの様々な人種が住んでおり、多民族国家を標榜しているが、中華系の人はおどろくほどシンガポールのインド料理屋のことをしらず、インド系の人はおどろくほどシンガポールの中華料理屋のことを知らない。深く分かりあうとするのではなく、あえてあまり関わらないようにして衝突を避けている。これこそが多様な文化が交じり合う社会での生き方なのだ、とシンガポールは教えてくれている。価値観の合わない人は、自分から離れたところで勝手に幸せになっていてくれればいい、これこそが多様性で知られている国家の実態だ。

ちなみにシンガポールは多文化共生政策をうたっているので、同じ公団マンション(HDB)に多様な民族が住み、学校や会社においても民族による差別は強く禁止されている。そして、同じHDBの1階にインド料理店と中華料理店があるケースが多いのだが、全く客層は分かれている。パブリックには常に多文化共生だが、プライベートでは自分達の文化の世界にいる。多民族国家は非常にドライな社会だ。

多様性の社会は、同質性のものが集まる社会

逆説的になるが、多様性を認める社会とは、むしろ性質の違う者同士の生活空間が交わらない社会なのではないか、という気がしている。私は田舎(島根県)の学校の出身だが、田舎の学校は数が少ないため住んでいる地域が同じだという理由で、様々な社会背景をもった子供が同じ空間にいた。畢竟そこには居心地の悪さがあり、成績の優秀な人は出る杭として疎まれ、成績の良くないものは足手まといとして疎まれる。絵の好きなものは異端児として、みんなとのサッカーに駆り出される。このように人々は均質化していく。

多様性を認められる社会とは、絵の好きなものとサッカーの好きなものが学校で仲良くする社会ではなく、絵の好きなものとサッカーの好きなものが別々に過ごす社会だ。

人間の本質と歴史の知恵

こういってしまうと身も蓋もないのだが、本質的に人間は異質なものを拒否する性質があるのだと思う。ここは非常に重要なポイントで、まずこの本質を踏まえないと多様性を認める社会の在り方を見誤ってしまう。学校でイジメが発生したときに「みんなで仲良くなりましょうと呼びかける」みたいな最も解決から外れた方向へ飛び出していってしまう。

私は学生時代から「みんなで仲良くしましょう」という言葉が嫌いだった。気の合わない人、自分を軽く見ている人と仲良くすることは苦痛でしかない。

「多様性を嫌う」というのが人間の本性であるのと同時に、「多様性を認める」というは人間が歴史から学んできた知恵であると思う。移民国家は様々な人種を歓迎することで、人口を増やし生産力を増大させてきた。アメリカやシンガポールはその大きな一例だろう。単に生産力を増大するだけでなく、民族間の融和や理解が進んでいくことが戦争を減らし世界平和につながっていくことは言うまでもない。

そう、理屈の上では「多様性を認めた社会(会社)」のほうが強固なのだ。しかし、多様性を認めるほど人間にストレスがかかっていくという事実を忘れてしまうと、多様性社会を維持することは出来ない。人間の本能に任せると、多様性は否定する方向に進んでしまうだろう。

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