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にいやなおゆき「乙姫二万年」

東京都写真美術館映像ホールで、にいやなおゆき「乙姫二万年」

ボロアパートに住む絵描き志望の僕が、アパートで愉快な住人と繰り広げる大騒動。画の中の夢が現実となり、乙姫という名の眼鏡っ子と子孫作りに励み、やがて卵が産まれて怪獣映画デートで怪獣の吐く炎を被弾して、孵化したのはなんと怪獣であった。写真と画と模型を混ぜて立体化した、アニメでも実写でも特撮でもない、夢に出るほど美しい2.5次元実験映画の佳品。

今日、東京都写真美術館でのお目当ては、にいやなおゆき「乙姫二万年」大木裕之「meta dramatic 劇的」この両方に相通じるのは崇高なアートの香りなんて全然しなくて、一流の小奇麗な建物に似つかわしくないw見世物小屋に入場料払って入ったような感じ。大木裕之さんが断食芸人に見えたもん(笑)

にいやなおゆき監督と大木裕之監督に共通するのは、天才的な映像感覚とテクニックをお持ちなんだけど、それを芸術として伝えるのではなくて、あくまでも楽しませる大衆娯楽の要素に落とし込もうとしてる点なんだよね。他の出品者と一味違う、私が選んで良かったと思える部分なのです。

今回は恵比寿映像祭でアート感覚の映像と同時に上映されたけど、ベースにあるのは見世物小屋みたいな胡散臭い、インチキ臭い世界観で(笑)これを模型や写真や絵や実写を闇鍋のようにグツグツと煮えたぎらせる、訳ワケメなパワーに充ち溢れた、娯楽の延長線上にある芸術。

映像ソフトをPCで観た時は必死で物語を追っちゃったりしたけど、最初から劇場で観てたらちょっと印象が違ったかも知れないね。ストーリーは絵描きの貧しい僕が欲求不満をマグマのように爆発させたとんでもない怪物をそのまま映像化しちゃっただけで荒唐無稽ですから。

にいや監督がアニメと実写と模型の合成による美しすぎる造形で作り出した世界観は、観る者に自分だけの物語を紡がせるが、これは「夢」でしかないし、大いなる「夢」である。だから、本編は実際に観てみなければ、私が何を書いているかもさっぱり分からないと思うw

観客の斜め上を行く、とにかく観客を楽しませることにのみ注力した絵や写真や模型やそれを組み合わせた凝りに凝った映像が贅沢に惜しげもなく投入され続ける、こんな作品を全身全霊を込めて作り続けたらストレスで死ぬよ!と心配になってしまう程の完成度の高さなのだ。

この映画で最大の見ものは風景である。人物ではない、だから私はこの作品をアニメとは呼ばない。実写とも呼ばない。紙芝居だけど奥行きがあり、人形劇だけど物語をつけた、いつか自分の脳内に浮かんだであろう、いや、この先いつか、脳内に浮かぶであろう儚い夢の続き。

既に映像ソフトをPCで視聴済みだったのだが、やっぱり劇場の大スクリーンで観ると印象が全然変わって来る。端的に言えば2点。一つ目は感情を激しく揺さぶられる、あるいは笑いのツボを刺激される場面があること、そして二つ目は私も素人なりに撮影テクが気になること。

激しく感情を揺さぶられるのは主人公の絵描きにとって浦島太郎が体験するタイやヒラメの舞い踊りとは我が子を身ごもった乙姫様と名画座で怪獣映画を観る瞬間であり、怪獣が放った光線が激しくピカッと名画座に落雷、一瞬にしてホワイトアウトした画面のど真ん中に「終」

劇中に登場する、主人公の青年が乙姫様とデートする時空を超えた映画館「名画座龍宮城」も、そこで上映されてる怪獣映画「ガスラvsギリゴン」も、写実的に絵で描いた映画内映画。作中にすっぽり収まったミニチュアな映画って、幻想的でとっても愛らしい(*'▽')

映画内映画に起きた突然の出来事に観客が驚く暇もなく、呆気にとられた主人公は手にしたポップコーンをポトリと落とし、仲良く映画を観ていたはずの乙姫様の不在と、可愛い子供の顔が見たかった孵化した卵の行方を想い、一気に現実の世界に引き戻された浦島太郎になる。

一方、一番笑ったのは、穏やかな笑顔でいつもニコニコ気の良さそうなアパート管理人の小川さんの隠された秘密。実は彼は人間ではなくロボットで頭をカパッと開けると電子回路が装備されていて、救急箱に入ってステーキ食べてる様子を住人たちが覗き込んで感心する場面であるw

2点目の撮影テクの点に関しては、初見の時から大変気になってはいたのだけれど、所詮は映画を制作する側にはど素人の私にとって、電子紙芝居と銘打って、手描きの画に模型(廃品の再利用から粘土細工まで幅広い!)写真までが混在する、妙な立体感が非常に気になるのだ。

私がこの映画で観たのは「幻視」だと思う。よく「幻覚」という言葉を使うが、五感の中でも例えば「幻聴」とは耳障りの悪い、耳鳴りのような騒音を想像するのに対し「幻視」という言葉には夢を見ているような、この世のものでないお伽話のようなフワフワした世界を想像する、その映像化だと思う。

ストーリーを追って観る映画ではない。本来、劇場の大スクリーンで暗闇の中で観て、幸せな幻視をうつらうつらと感じ取り、気が付けば映画は終わっていた。そんな感じでちょうどいい。だから、どこかの映画館で観てみたい。現実ではないどこかへ、連れて行って欲しい。

にいや監督は、井川耕一郎監督「たからぶね」で、ラストの印象的な特殊造型?を担当され、それは海に向かって登場人物が船を出す、生の世界から死の世界へと旅立つような「みんな仲良く、いつまでも」だった。この「乙姫二万年」も現在と二万年後の二つの世界の交信を感じる。

井川監督は本作の評論で「生者の世界に死者が戻って来る」と書かれており、それは多分に渡辺護監督の諸傑作において描かれた「死者はまだこの世にいるんだよ」というメッセージの続きだと思う。井川監督の寄せたメッセージを読むと、改めて持つ意味を強く感じるのです。

私が「幻視」と表現する意図は、必ずしも「生者の世界」と「死者が戻って来る」ことだけを意味するものではないが、此岸と彼岸を置いて、その間を行き来することが人間が見る夢の本質なのだ、と断言できる。だから人は夢を見て死んでしまった大切な人に会うことができる。

現実に存在する人間を水彩画、風景を実写、そして人間ではないけどどうしても人間にみえてしまうようなスピリチュアルを感じる物体を模型で表現し組み合わせた。それが互いに画の中にビシッとハマっている。私のイメージとしては、演出は紙芝居とか人形劇の方が近い。

子供の頃、ドリフの孫悟空を人形劇で観て、アニメより作り物の人物に霊魂を感じた。日常の風景の中で、何気なく眺めている玄関や壁に、人の気配を感じることがある。それは自分が見ることによって初めて作り出されるもので、予め存在していたモノではない。という捉え方。

例えて言うなら、夢野久作の原作を実写化した松本俊夫「ドグラマグラ」のようなイメージだろうか?主人公の青年がボロアパートの中で体験する、いや、ひょっとしたら夢の中で疑似体験しているだけかも知れない世界は、どこか精神病患者が見る白日夢のようにも感じるのだ。

これは実写化ではない。アニメも模型も混じっていて、文字通り「カオス」である。乙姫が何しに時を超えてやって来たかも、ボロアパートに住む住人たちの素性も彼らの特異な生活ぶりもそれによって引き起こされる数々の奇跡も、全て脈絡がある様でない、映像のリレー。

主人公の住むアパートの鈴木さん親子、ヤクザの山田さん、管理人の小川さんは、アニメで人間のように描かれるが人間ではない。逆にアパートの建物とか映画館とかモアイ像とか、明らかにオブジェでしかなかった物体がどんどん目や口を持った生き物に見えて来る恐ろしさ。

私は、小学生の頃に良く見た夢を思い出す。家の近くのバス通りの、バス停のあるはずの無い場所に路線バスが突然停まって、運転手が大急ぎで下りて来て、車体の下を覗き込むと人間の死体があり、大勢の人が騒ぎ出す。このフラッシュバックするような夢を私は百回は見た。

もう一つ、私は高校生の頃、深夜に受験勉強して朝方になるとジョギングして近くのスーパーの前の自販機で缶コーヒーを飲んで、家に帰ると玄関に、確かに誰かいる。でも良く見ると、自転車のハンドルの先だった。このフラッシュバックも、ジョギングをする度にあった。

私が小学生の頃に見た、トラックの車体の下に死体騒動の夢も、高校生の時に見た、朝方のジョギング帰りの人の気配も、間違いなく「幻視」であり、フロイト心理学では何かのトラウマに位置づけられるはずなのだが、それよりも夢やロマンを持って語るのなら、それ自体が画。

もし私に絵や映画の才能があったら、あの日に見た幻視を再現してみたい!となったのだろうが、あいにく私にはそういう才能は無かった。ところが、この作品は幻視の再生のそのものじゃないですか!夢と現の境界線を軽々と乗り越える、それが良いことか私には分からないw

もし人間が、自分の目の前の、網膜に映し出されるものだけしか視覚化できないとすれば、恐らく感性は非常に貧困で、そこに感情も湧かないと思うのだが、本能的に意味づけしたり、かつての記憶と結び付けたり、脳内で様々な勝手な働きが自分だけの映像を作り上げてしまう。

芸術とは正気と狂気の境目位にあるのが通常だが(笑)にいや監督の場合、造形作家のプロフェッショナルだから、再現を忠実に行う手段として、適切にアニメと模型と実写を駆使して、それを誰もが安心して観られる画として完成させる。だから「ドグラマグラ」より見やすいw

物語の感想自体の大半は省略します(笑)だって、これは夢の中で描かれた美しい世界の再現映像だと思うから。私が特に気に入ったカットをいくつか、例示として並べてみたいと思う。それはすなわち私が既にそれに近い夢を見た、あるいはこれから見てみたいと思う映像そのもの。

まずなんと言っても「名画座龍宮城」を巡る一連のカットは全てがパーフェクトに素晴らしい。なぜかって?それは私が重度の映画ファンだからですw映画への思い入れが画をより印象的なものにさせる。だって「名画座龍宮城」アニメの世界に実物のように精緻に建立してる!

「名画座龍宮城」は海の向こうにあって「ガスラvsギリゴン」本格的なポスターも貼られていて、私も幼い頃に夢中で観ていた「ゴジラvsモスラ」みたいな怪獣映画が上映中。主人公が、乙姫様と産まれたばかりの卵を抱えて、念願の劇場デート。映画内映画のスクリーンで怪獣が暴れ、光線を口から発射して、卵を直撃した!

その一連の場面に私は感じるのだ。小学生の頃に怪獣映画観たっけ。楽しかったなあ。今度は初恋のあの女の子と一緒にデートで行きたいなあ。そんな夢想が幻視の中に映画館を創造し、主人公の夢が全て叶う一歩手前で、夢ならば必然、それは全てキビシイ現実に帰してしまうw

青年が住んでいるボロアパートにいる隣人たちは、奇々怪々な人たちだけど、楽しいキャラに描かれる、それは主人公がボロアパートでうつらうつらと見る夢の中で「俺のお気に入りのアパートだから、みんな住人達も楽しいはず」全てはこうあって欲しい夢の産物なのだろう。

鈴木さんは母子家庭なのだろうか?母親はバーで給仕していて、愉快なオジサンが頭のてっぺんから可愛い女の子を登場させ「雨降りお月さん」歌わせるマジック。死んだはずのヤクザの山田さんは怖いお墓の取り立て屋さんを追い返してくれる、死んでも頼りになるヤクザw

にいや監督が声をアテている管理人の小川さんは、穏やかそうなイイ人だけど、正体はロボットだった(笑)主人公にとって誰も自分と同じ人間なんかいなくて、対象物として人間っぽく見えてただけで、彼には自分が住んでいる家の窓枠が人間の目のように見えて来てしまう。

だから(←だから、じゃねーよw)私は主人公にとって「乙姫様」自体が幻視の最たるものだと思うし、その幸せで理想的な幻視は子孫を作ってくれて、卵が孵化してくれさえすれば家族三人、仲良く暮らしていけるかと思った。でも大好きな怪獣映画のせいで、壊れてしまった。

にいやなおゆき監督からコメントをいただきました。ありがとうございます(^^)/

ありがとうございます。とうとう大画面で観てもらえました。さっきまで疲れ果てて寝てました。いつか『烏賊祭』や『人喰山』や『うなぎのジョニー』も大画面で観てもらいたいです!

(東京都写真美術館映像ホールの映写環境は、写真と映像が専門の公立施設ってここまで凄いのか、と感心する素晴らしいものでした。ここで「乙姫二万年」を観ることができた私は幸せ者です(*'▽'))

そう言って頂けると作品も幸せです。恐らく、今まで上映した中で一番良い環境だったはずです。『破魔矢』も大劇場でかかる機会はまず無いでしょうから、幸運でした。モニターで上映中のスクリーンを見てたんですが、例の夫婦が出てきた所では自分で笑っちゃいました。

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