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写真は芸術か

先日「写真は芸術か」という議論があるということを知りました。

「写真は芸術ではない」と言いたくなる気持ちが分かるので、この議論の存在には注意を引かれました。

「写真は芸術ではない」と言いたくなる気持ちがなぜ分かるのかというと、僕自身、かつてそのように感じていたからです。

理由はと問われれば、「漠然とそんな気がしていたから」というのが正直なところであり、十代の僕に理屈はなく、この感覚だけがなんとなく脳内を占めていたのです。

現在の立場で、十代の僕が「写真は芸術ではない」と思っていたのはなぜか考えてみます。

絵画や彫刻が、人間の手による不完全な現実模倣であるのに対して、写真は、僕が子どもの頃にはすでにデジタルカメラが普及し始めていて、それはかなりの精度で現実を複製しているように思えました。

当時の僕は写真のその複製の完全に近さが、芸術との隔たりに感じられ、現実との隔たりの大きい絵画や彫刻はその隔たりという隙間に芸術性が訪れるものだと、感じていたのだと思います。

つまり、現実との隔たりが大きいほどそこに訪れる芸術性にも大きさが期待できるだろう、ということです。

ちゃんと写りすぎるデジタル写真にはもう余白がない、と感じていたのです。

いまは「芸術」という概念の輪郭がはっきりしているので、写真は芸術たりうると、はっきり言えます。

さて、「写真は芸術か」という問いですが、問題のたてかたに難があります。

この問題のたてかたでは、イエスと答えれば「写真=芸術」となり、ノーと答えれば「写真=芸術ではない」となってしまいます。そんなに極端な答えが正しいわけがありません。

「絵画は芸術か」と問われたらなんと答えるべきでしょうか?

「芸術と呼べるものもあれば、呼べないものもある」というのが正確な答えです。

なので「写真は芸術か」ではなく「写真は芸術たりえるか」というように問いを作り直すべきです。写真であれば即芸術、写真であれば即芸術外というような極端さを排除するためです。

ではいよいよ核心です。芸術とは何か、考えてみましょう。

僕は深度の異なる答えを持っています。

深くなるほど排他的で説明も長くなるので、ここではもっとも浅い深度の考えかたを紹介します。

簡単に言えば「芸術とは現実を再認識させるもの」です。

僕らは特定の枠組みに従って現実を認識しています。

例えば、親が子に「現実を見なさい」と言う場合は、「現実」という言葉は「社会的な現実」を指します。

ですが、社会の外にも現実はあります。社会というのはある種のゲーム盤なのです。

そのゲーム盤の外の視点に立てば、国家もお金も会社も、人間が作り出すまでは存在しなかったフィクションであることが分かります。

原始時代、あるいは野良犬の暮らしなどを思い浮かべてください。お金という概念は物々交換よりだいぶ文明化してからものです。

ゲーム盤が壊れたらお金は価値を持ちません。暴力によって食物は奪われます。

所有権もゲーム盤の上でのみ力を持つ権利です。熊はゲーム盤の外の存在なのでひとの家の敷地に勝手に入り込みます。

このように、社会を生きるうちに僕らは社会的な枠組みを自明な現実そのものとして受け止めがちです。

ゲーム盤の外から呼びかけることで、僕らにゲーム盤の存在を知らせる装置が芸術作品です。

海を泳いでいるあいだは海全体が見えないように、ゲーム盤に完全に乗っている間はゲーム盤の存在に気が付きません。

以上が簡単な芸術の説明です。

いま一度確認しましょう。「芸術とは現実を再認識させるもの」です。

この定義に従えば、写真に限らず、漫画やコメディですら芸術として機能しうることが分かります。

反対に、抽象的ななんだかありがたそうな絵画が芸術ではない可能性も大いにあります。

大事なのはカテゴリーではなく機能なのです。

結論です。

写真は芸術として機能しうる。芸術とは、現実を再認識させるものである。そのような写真は想定可能である。大事なのは機能でありカテゴリーではない。問題のたてかたに注意せよ。



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