主観的文章と客観的文章

   文章には2つのありようがある。その概念が主観的文章と客観的文章。両者は価値の高低ではなく、たんなる二つのありようを指している。

 書きたい文章がどういうものなのかによって、この二つのどちらかが記述のありようとして決まってくる。

主観的文章

  主観的文章は、自分が言いたいことを、客観的根拠と無関係に書く。エッセイとか小説とか、そういうたぐいである。世の中にはこの系統の文章があふれている。主観的文章の中で私が素晴らしいと思う文章類は、その書いている内容が、自分の「主観的な主張」であることや 「思い」であることを隠さない文章である。いわば堂々と書いている。

 逆に質が悪い(私見です!)のは、あたかも客観的にそうであるかのようにごまかす文章。すごいのは「みんなそう考えている」的な文章で、「みんな」って誰よ?といいたくなる系統の文章である。

 客観的文章

 客観的文章は、根拠に基づいて、いえることだけをたんたんと記述している文章である。これは主にアカデミック系の文章で、そのありようとして決まってくる。こちらは、あるテーマについて、その根拠(データ等)に基づくと、この方法によれば(方法も記述される)、だれが考えても同じ結論になるという形式で書かれる。このためデータの再現性、方法の再現性が求められる。

客観的文章は論理的である必要があるが、論理的な文章が客観的な文章というわけではない

 さてそこでこういう問題がでてくる。社会的に認められた理論があるとする。その理論はすでに証明されて客観的文章として記述され社会的に受け入れられている。このような理論を例えば二つ組み合わせて、私が現実に適用し、ある事象について解釈する。そしてこの事象は、このような理論の組み合わせで解釈すると、こうだ!という形で書く。

 結論的にいうとこれは主観的文章である。なぜかというと、理論を組み合わせて論理的に事象に適用しているが、現在生じている事象と理論の関係については、単に解釈しただけで、データ等の根拠がないためである。いいかえると、根拠、方法(理論の組み合わせ)などが再現性のある形でしめされれば、客観的文章になる可能性はある。通常、一般書籍としてでているものはほとんどこの段階の主観的文章といえるものである。

 繰り返すが主観的文章と客観的文章は価値の高低ではない。しかし、自分が書きたい内容、文章がどういうものかによって、どちらが適切かは自ずときまってくる。

 なぜ、これを取り上げたかというと、最近、主観的主張をあたかも客観的であるかのような言い方で書く文章や話し方をする大手メディアが増えた印象をもったからである。

 わたしがnoteが素晴らしいと思った理由は、主観的文章を、自信をもって書いている人が大半だからだと思う。私の実務的な関係では、どうもこの辺、ごまかすというか、中途半端な文章が多いのかもしれない。気を付けようと改めて思った次第。





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