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最果ての先へ

 毎年、12月31日の23時59分にやって来る無人バスのゆくさきは、『最果て』。
 この町に古くから伝わるその都市伝説を信じている者など、今日日、小学生でもいないだろう。今年23歳を迎えた成人女性の私が、『最果てゆき』のバスに乗ると言ったら、きっと誰もが鼻で笑うに違いない。
 でも、笑われてもよかった。そんな小さな羞恥心を耐え忍ぶだけで、もう一度大夢に会えるのなら。
 今年も、後数分で終わる。家からそう遠くないこのくたびれたバス停には、私以外誰もいない。みんな、年越しの瞬間を家や神社で迎えようとしているのだろうか。
 車一台通らない道路をぼんやりと眺めながら、去年の大晦日を思い出してみる。間違いなく、人生が音を立てて崩れ落ち始めた日。あの日から全てが変わってしまった。私は、その変化に適応する力を持ち合わせていなかった。周囲の人間からは、忘れるように何度も言われた。また、いい人は現れるよ。次は、今回の失敗を教訓にしないとね。
 大夢との日々は、失敗なんかじゃなかった。少なくとも、私にとっては。けれど、大夢にとってはどうかわからない。失敗だったから、私の前から姿を消したのだろうか。いけないと思いつつも、また最悪の思考回路に陥ろうとしている。
 ああ、この世界は何も考えず漂うだけなら簡単なのに、もがいて泳ごうとすればするほど困難を極める。
 一度冷静になろうと、ペンキが剥がれたベンチに腰掛けようとしたそのとき、不意に自動車の停車する音が聞こえた。顔を上げると、目の前には真っ暗なバスが一台。まるで、回送バスのように車内には乗客が一人もいない。側面の行先案内には消えかかった『最果て』の三文字が、僅かに光り照らしていた。
 本当に存在してたんだ。
 あくまで半信半疑だった。何故か、驚きよりも興奮の方が大きかった。なんら普段利用しているバスと変わらない形態のそれを呆然と見つめていると、乗車口がゆっくりと開いた。都市伝説で囁かれているように、重苦しく開いた扉の先に行ってしまえば、もう後戻りはできないのだろう。『最果てゆき』は片道乗車だけ。
 この世に未練がないやつだけが、行くところらしいね。『最果て』って。
 去年の冬、なんともなしに大夢の言っていた言葉が忘れられなかった。もし、大夢がそこに――
 23時59分、私は『最果てゆき』のバスに乗り込んだ。右手に握り締めていた小銭を運賃箱に投入すると、運転席に座る運転手らしき男がこちらを見ずに小さく会釈した。帽子を深々と被った運転手の表情は、何も見えなかった。
 座りたい放題の席が、眼前には広がる。朝の通勤のとき、どれだけこの光景を望んでいたことだろう。毎度決まって乗車口ギリギリのラインに立たされ、その都度真横で睨みを効かせてくる運転手。手すりに捕まってください。いや、捕まる手すりすらないのよ。見たら、わかるでしょ? こっちだってできることなら捕まりたいよ、そりゃあ。そう今にも口に出したいと思っていた日々が遥か遠い昔のようだった。
 どの席に座ろうか、小さくない最後の贅沢に頭を悩ませていると、真後ろから「危ない、間に合った!」と息切れした声が聞こえてきた。びっくりして振り返ると、両膝に手をついて肩で息をする男が立っていた。
 呼吸を整えて少し落ち着いた男は私の姿を認めると、恥ずかしそうに頭を下げた。
「すみません、なんかお騒がせしちゃって」
 仕事終わりなのか、スーツ姿の男は、残業終わりで今から自宅に帰宅するサラリーマン風に見える。四十代半ばのその男は帰宅して一人缶ビールを飲みながら、奥さんが作ってくれた晩ご飯をレンジでチンして食べる。そっと寝室を覗くと、奥さんと子どもがすやすやと眠っている。その寝顔を見て、また明日も頑張ろうと静かに胸に誓う――そんな日常が待っていてもおかしくない風貌の、男だった。とても、この世に未練がないような人間には見えなかった。
「…あのー、どうかされました?」
「え?」
 困ったような表情で、男は私に問う。
「いや、私のことを見て、しばらく固まってらっしゃったで。ひょっとしてどこかでお会いしましたかね?」
「あ、いえ何でもないです。すみません」
 まさか、私以外にこのバスに乗車する人がいたとは。予想外の展開に、ここにきて初めて動揺を隠せなかった。
 けれど、私の動揺なんか気にすることもなく、乗車口が閉まり、バスは発車していく。
「立ってるのもなんですし、とりあえず座りましょうか」
 男に促されるように、私たちは最後尾の座席へと向かった。

「いやあ、それにしても自分以外にもこのバスのことを信じてる人がいたとは驚きです。あ、申し遅れました、私、迫田と申します」
 ジャケットの内ポケットから革製の黒い名刺入れを取り出したところで、迫田はハッとする。
「ああ、すみません。初対面の人に会うと、ついいつもの癖で」
 最果てに行くんですから、そんなものは必要ないですよね。迫田は、これから営業トークでもするかのように、爽やかな笑顔でそう言った。
「私は、川口っていいます」
 なぜ、こんな場所でお互いに自己紹介をしているのかはわからなかったけれど、『最果て』に着くまでの時間、丁度いい暇つぶしにはなりそうだった。
「どれくらい、かかるんですかね。『最果て』までの時間」
「うーん、ネットでは五分だとも一時間だとも言われていますが、どれも信憑性はないですね。そもそも、このバスに乗った時点で、時間の概念がなくなってしまうとも言われてますしね」
 ほらこれ見てください、と迫田はスマートフォンを私に向ける。暗い車内に唯一生まれた眩し過ぎる光。そこには、ランドセルを背負った小学生高学年ほどの女の子が映っていた。
「これ、ロック画面なんですけど、時刻と日付が消えてるでしょう? どうやら、時間の概念がないのは本当のようです」
「この写真…」
「写真?」
 自身のスマートフォンを見返した迫田は、ああ、と言って目尻に皺を寄せる。
「娘なんです。今生きてたら、中学2年生かな。3年前に、交通事故で亡くしちゃって。そこから、妻も半狂乱状態になってしまいまして……、もうめちゃくちゃです。って、私の身の上話なんか、どうでもいいですよね。申し訳ありません、暗い話をしてしまって」
 無理して作る迫田の笑顔は、どこか大夢と重なるところがあった。俺、プロに進むの無理そうだわ。ははっ、ごめん。噓つく形になっちゃって。どこからともなく聞こえてくる大夢の声は、笑っているのに泣いているようだった。
「…奥さんは、いいんですか」
「え?」
「迫田さんは、奥さんを置いて『最果て』に行ってしまっていいんですか?」
 私は初対面の人間に、何を聞いているのだろう。他人が決断を下した人生に、干渉してどうする。私はつくづく自分が嫌になる。他人の人生に干渉しようとする自分も、一年間行方不明になった彼氏を探しにこんなバスに乗ってしまった自分も、もしかすると『最果て』になら大夢がいるのではないのかと淡い幻想を抱いてしまう自分も、全部、全部。
「……妻は、もう私が誰かもわかってないと思います。義妹夫婦に、私の全財産は全て残してきました。面倒は、責任を持って看てくれるはずです」
「そういう問題じゃなくて」
 立ち上がり叫んだ私に、迫田は目を見開く。明らかに、この状況に困惑している様子だったけれど、構わず続ける。
「どうして、奥さんはまだ生きてるのに目を背けるんですか? どうして、自分だけ現実から逃げようとするんですか? 奥さんは必死に生きてるのに」
「川口さん…?」
 私は、迫田に怒ってるんじゃない。あのとき、大夢の苦悩と向き合おうとしなかった自分自身に怒っていた。弱りきった大夢を受け入れられる自信がなかったから、怖かったから。
 そうして、大夢から逃げた。

 大夢は、その名前に負けないぐらいの大きな夢を抱いていた。プロサッカー選手になる。高校卒業後、関東の強豪と呼ばれる大学に進んでからはすぐに頭角を現し、プロ内定も時間の問題だと言われていた。そんな大夢に心臓の持病が発覚したのは、大学四年の夏。あるプロクラブとほぼ契約間近のときに起きた出来事だった。
 そこから崩れ去っていくのは、早かった。一試合通してプレーすることが不可能だと医師に宣告されてからは、プロ行きの話も白紙。大学最後の大会も、大夢がピッチに立つことは一分もなかった。決して、誰かが悪いわけではない。全てが、然るべきことだった。大夢も、それはわかっていた。
 ただ、大夢は近くで支えてくれる存在を求めていた。私はその存在が自分であることを自覚していながら、無自覚であるふりをした。その方が、楽なのを知っていたから。大夢がいなくなってから、悲劇のヒロインを演じて大夢を探そうなど、都合のよすぎる話だった。
 私は、どこまで行ってもどうしようもない卑怯者だった。
 そして再び、この現実から逃げようとしている。今度は、大夢がいないという現実から。本当は、その現実も受け入れて生きていかなければならないのに。わかっていた。わかっているのに、私は情けないほどに弱い。
 でも、まだ今なら間に合う気がした。今なら、真っ直ぐに前を向いて生きていける気がした。
「ちょっ、ちょっと川口さん。何してるんですか!」
 私は、降車ボタンを押していた。鈍い一つの光が赤く点滅したかと思った次の瞬間、バスは大きく揺れ、辺りは目も開けていられないぐらいの白い明かりに包まれた。

 目を覚ますと、私はいつものくたびれたバス停のベンチに座っていた。隣には、まだぐっすりと眠っている迫田。大事そうに手に握られているスマートフォンのロック画面には、『1月1日日曜日 6時50分』の日付と時刻が表示されている。
 私はよろよろとベンチから立ち上がり、道路へと出る。戻ってきたのか、現実に。どこまでも続く一本道の先には、燃え盛る青空が広がっていた。初日の出だ。
 この世界には、最初から『最果て』なんてなかった。
 ただ生きている限り、果てのない道を歩んでいかなければならなかった。酷く険しい道が、待っているのかもしれない。それでも、今私を照らしているこの何ものにも代え難い光を、追い求めていきたいと思った。追い求めた先ではきっと、今よりももっと自分を愛せているはずだから。

 不意にクラクションの音が聞こえ後ろを振り向くと、一台のバスがやって来ていた。
 このバスは、私をどこに連れていってくれるのだろう。ポケットの財布から小銭を取り出し、そっと握り締めた。

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