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特急列車が過ぎ去るとき

 今日も、佐久間琳音はアングレカムの匂いを身にまといながら、僕の隣に腰を下ろした。いつもの駅のホームのベンチ、この並びは出会ってから今日まで結局一度も変わらなかった。
「よう、一ヶ月ぶりくらいか?」
 僕はワイヤレスイヤホンを耳に装着し、スマホに視線を落とす。彼女の声が聞こえなくなるから、音楽は流さない。
「そうだね、受験が終わってからだから、多分それぐらい。佐久間さんは、今日は制服で来たんだね」
 横目に佐久間さんを見ると、彼女には不似合いな真新しいブレザーの制服姿が映った。「卒業式だからな、今日ぐらいは」、そう彼女は白い歯を見せて笑った。僕の胸元にある卒業の印である造花は、佐久間さんの胸元にはない。
「卒業式、どうだった?」
「特に、何も。あ、でも真野さんが金髪で学校に来て、先生たちに凄く怒られてたよ」
「華が? 嘘でしょ?」佐久間さんが、その綺麗な金色の髪を揺らしながら、僕の方に顔を向ける。
「金髪にすれば、琳音も一緒に卒業できるからって、よくわからない理論を振りかざしてた」
 真野華の理屈は本当によくわからなかった。髪色だけでも佐久間さんと同じにすれば、一緒に卒業できると思ったのだろうか。まるで小学生のような考え方に、開いた口が塞がらなかった。思い出すだけで気持ちが冷めていく僕とは対照的に、佐久間さんは、そっかぁ、と感慨深そうに呟く。
「まさか、感傷に浸ってる?」
「当たり前だろ! 私はつくづく良い友だちを持ったんだなって、思ってさ」
 なら、どうしてその友だちの想いを無視してしまうようなことをしてしまったの? 喉元まで出かかった言葉を、僕はぐっと飲み込んだ。今更そんなことを聞いたところで、どうにもならない。佐久間さんのその選択もまた、思い悩んだ末の決断だったのだろうから。
 目の前を、各駅停車が通過していく。平日の昼過ぎ、春の陽が差し込むホームに、人はまばらだ。この調子なら、イヤホンを外しても問題ないか。僕はイヤホンを外して、スマホと一緒にポケットに仕舞う。
「外していいのか?」佐久間さんが、すかさず尋ねてきた。
「うん、こうして話してても、ほとんど誰もいないし大丈夫でしょ。今だから言うけど、音楽を聞かない状態でイヤホンしてるのって、結構変な感覚なんだよね」
「そりゃあ、そうだ。なんか、こうしてイヤホンなしのあんたと話すのって、すげー新鮮だよな」
 本日二度目の白い歯が、姿を現す。心なしか、彼女は嬉しそうだった。佐久間さんと話すとき、僕はいつもイヤホンをしていた。イヤホンをして誰かと電話をしているフリをしていないと、周りの人々から狂人だと思われてしまうから。
「なんで、私ってあんたみたいなガリ勉と意外とウマが合うんだろうな」
「対極の人間同士、どこか惹かれ合うものがあるからかもね。多分」
 僕は、佐久間琳音がまだ高校に通っていたとき、彼女に対してネガティブなイメージしか抱いてこなかった。学校一の問題児ヤンキーで学力は最底辺。いつも生活指導室に呼ばれては、説教の毎日。そんな彼女と関わることは、生きている限り一生ないだろうと思っていた。 
 それが、何の縁なのかこうして今は二人で話している。
 このホームで特急列車を待っている時間だけ。こんな生活が、始まってからかれこれ一年。全ては、彼女が学校からいなくなってから始まった。
 高三の春、僕の前に突如として現れた佐久間さんはスウェット姿だった。ヤンキーがよく着ているような黒のアディダスの典型的な、といった感じの。
受験勉強からくる疲れが見せている幻覚だと思った。彼女が、僕の目の前に現れるわけがない。いや、それは僕だけではなく、全ての人間の前に。
 最初は無視していた。無視した方が賢明だと思ったから。でも、毎日駅のホームのベンチにやって来て僕の隣に座る佐久間さんの瞳は、どこか寂しそうだった。後悔にも似た、何かがそこにはあった。
 先に話しかけたのは僕からだったのだと記憶している。何を話しかけたのは記憶していないけれど、そのときの佐久間さんの顔は今でも鮮明に覚えている。僕が今しがたイヤホンを取ったときと同じくらい――もしくはそれ以上に、嬉しそうな表情をしていたから。
 その日から毎日、学校もしくは塾が終わって駅で特急列車を待つまでの時間、彼女と過ごすようになった。
 僕は無音のイヤホンを付けて単語帳を見ながら、佐久間さんとの話に興じた。基本、僕は佐久間さんに対して深くは尋ねなかった。佐久間さんが投げかける質問に、返すだけ。何人家族? とか、高校卒業後はどうするの? とか、恋人はいるの? とか、あんたが卒業したら私はどうすればいいんだろう? とか。会話は会えば会うほど、途切れることなく続いた。
 そんな僕の気づけば日常となっていたこの時間が、今日終わりを告げようとしていた。
「来週、東京に行くことが決まった」
 急行列車が過ぎ去って行ったタイミングでそう告げた僕を、佐久間さんは一瞬フリーズしたかのように黙って見つめる。たった数秒なのに、恐ろしく長い時間のように感じられた。やがて、急行列車が遥か地平の彼方に消え去ると、そっか、と一言呟いて彼女は続けた。
「まずは、おめでとうだな。言いたくなかったら別にいいけどさ、一応聞いとく。第一志望?」
 彼女の問いに、僕は頷く。家族と高校の担任と塾長を除いて、誰かに自分の合格した大学の名前を告げるのは初めてだった。大学名を聞いた彼女は、目を丸くして、拍手した。
「おーー! すげーじゃん! この私でも、聞いたことあるぞ! その大学」
 まるで自分のことのように、いやーよかったよかった、と胸を撫で下ろす佐久間さんを見て、どこかムズムズする。腹の底が、熱くなる感覚があった。
「まあ、いつもあんなに頑張ってたしなぁ。ここで単語帳を読んでなかった日、一日もなかったもんな。雨の日も雪の日も、どんなときでも。でもよかったぁ、私が邪魔になってなくて」
「その代わり、高校生活は無味無臭だったけどね。勉強ばかりしてたから、思い出も一つもない」
「そう自虐気味になんなよー。羨ましいよ、こんな北関東の田舎から大都会に行けるなんてさ。あんたは、そうやってどんどんと私の知らない世界に行っちゃうんだろうな」
 ホームから見える春空に、想いを馳せるその横顔は今にも消えてしまいそうだった。強気な口調とは裏腹に、どうすることもできない儚さがそこにはあった。
「なあ、最後に一つ伝えておきたいことがあるんだ」
 メガネのレンズ越しに、佐久間さんと目が合う。その純然たる瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「私のことずっと忘れないでいてなんて、女々しいことは言わない。でも、普通の高校生が過ごすよりもよっぽど摩訶不思議な時間があって、自分はそのときを生きたんだってこと、たまには思い出してくれよ。無味無臭なんかじゃないよ、あんたが過ごしたこのときは。だって、私は――」
 彼女が全てを言い終える前に、僕は佐久間さんのブレザーの胸元に造花を差し込んでいた。
「佐久間さんも、今日で卒業しよう。僕も、この時間から卒業しなくちゃいけないから。これは、その印」
 この奇妙な時間を、終わらせなければならなかった。特急列車が光の速さで過ぎ去って行く前に。時間は、残されていない。僕にも、そして佐久間さんにも。終わらせることが僕のためでもあり、そして佐久間さんのためでもあった。彼女を、一人このホームのベンチに残して東京に旅立つことはできなかった。一人この場所を彷徨っていた頃の彼女の、不安と孤独に満ちた瞳を覚えているから。
「…もうここに帰ってくることはないのか? この先ずっと、一年後も十年後も、三十年後も?」
 佐久間さんは、ブレザーの胸元に差し込まれた造花を掴もうとする。でも、それを掴めない。
「うん、この場所に来ることはもう二度とない。家族ごと、東京に引っ越すんだ。知っての通り、ここに友だちは一人もいないし」
  友達が一人もいないのは真実だけれど、家族ごと東京に引っ越すのは嘘だ。それは、彼女にこの場所に対する未練を持たせないための嘘。
「だから、近い将来、君はまた一人になる。それでも、このまま先もここに生き続けることができる? 孤独と生きていくのは、辛い。僕には、わかる。君と出会うまで、ずっと一人だったから」
 僕は佐久間さんと出会って、少なからず救われた。色のなかった日常に、初めて色がついた。この先、二度と出会うことのない色が。
 それは、きっと彼女にとっても一緒のはずだった。一生に一度の奇跡的な出会い。この出会いは、運命などという陳腐な決まり文句を超越した、遥か尊いものだった。
 やがて、佐久間さんは覚悟を決めたのか先程までの弱気な表情から打って変わって、柔らかな笑みを浮かべていた。
「私、男に振られたことはもちろんなかったけどさ、女に振られる日が来るなんて、思いもしなかった。でも、あんたは私が出会ってきたどの男よりもダントツでカッコよかったよ。…ちょっとだけ、好きだったかも」
 特急列車がやって来ようとしている。片道限りのその電車は、僕たちを在るべき場所に連れて行く。
「これからも、自分らしくな! たまに人の目を気にしたりしてるけど、誰よりも強い自分を持ってるユウキなら、きっと東京でも大丈夫! 応援してるぞ。本当に――」
 特急列車が過ぎ去るときには、僕はその場に一人になっていた。
 そこに、佐久間琳音はもういない。彼女が最後に僕に伝えようとしていた言葉は、何だったのだろう。電車が発車する音にかき消されたその言葉を、永遠に知ることはできない。でも、その言葉を忘れて生きていけるぐらいに、僕はきっと強い。いや、強くなった。
 ふと、隣の椅子に視線を落とすと、造花が風に揺れて、青空の向こうに飛び立とうとしていた。甘いアングレカムの匂いとともに、どこまでも遠くへと。
 この造花に、素晴らしい未来が待っていますように。沢山の幸せが降り注ぎますように。その姿が見えなくなるまで、何度も祈り続けた。やがて、アングレカムの匂いが、駅のホームから消えた。
 各駅停車が、やって来る。

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