部屋の中から飛躍する革命

こたつ机の上で慎重に研がれるナイフもある。

ある程度醸成された社会構造の中では資産や功績、人種、宗教といったものを積み上げる形で市民は階層に分けられる。ピラミッドのようなイメージで、中間から下は広く、上層の数段は限られた者だけの狭い世界となる。

こうした社会階層は年収であるとか世帯持ちであるか否かといった指標を用いて判断されることもあるが、こういう指標が実情に即しているかと言えば難しい。社会的なシステムは複雑怪奇で測定不能な数量の因子によって成立している。また、年収や慣習的な価値観はローカルな分野でしか意味を持たない。
貨幣価値や慣習的価値観がグローバルな視点によって常に評価され、変動し続ける中にあっては絶対的な指標となり得るものはない。

社会階層というものの不明瞭さ、そしてその不透明さに気付く頃になってくると真に持たざる者にとって同じ階層の「仲間」を探す作業は困難を極める。
同郷の友人や気持ちを許して話のできる恋人が同じ階層であるかどうかは別の話だ。

当人が階層意識を持てば持つほどに真の仲間とは誰であるのかを掴めなくなる。社会の中での孤立とはこういったものであって、決して周りに人が居ないことを示すのではない。友人に囲まれながらも孤立し、家庭を持ちながらも寒気に震えることもある。

果たして、社会的に自らを下の階層と自覚してしまった人間がその事実に納得できるかどうかは重要な問題となる。
自分の立つ階層に生涯納得できるのであれば問題はない。
しかし、自分の理想と現在の位置に齟齬があるのであれば危険性を孕むことになる。更には共有できる仲間が居ないとなれば暴走は免れない。

こういった階層の中で不満を抱えた孤立者。
彼ら彼女らにとって、本来必要であるのは着実な一歩目の踏み出しだ。現状変更の試み。この積み重ねによって階層は本来変えられるものだ。ところが、着実な一歩目が実を結ぶかどうかはわからない。一歩目で挫け続けることもある。そうして身動きがとれなくなっていく。社会的な死とはこういうもので、なにも怠惰の先にだけあるものではない。強迫観念と不器用が組み合わさると人は孤立したうえで熱的な死を迎える。

さて、こういった社会階層をひっくり返すイベントがある。歴史においても繰り返された「革命」というものだ。西洋と東洋での革命観は違うようだが、ここではゲームの大富豪と同じ東洋的な階層のシャッフルとしての革命をイメージする。
弱者が強者に打ち勝つチャンスが生まれる。社会構造の仕組み自体が壊れたこの瞬間に立場は一瞬イーヴンになったように見える。

弱者にとってこの革命は希望の灯になる。挫け続けた一歩目を踏まなくていいとなれば当然である。いや、地道な積み重ねを経ないゴールへの近道はどんな人間でも求めているものだ。

狭い部屋の中、研がれるナイフがある。そこには即席の主義・思想がある。先鋭化されたナショナリズム。に見せかけた鬱屈とした偏見である。
攻撃対象は強者である。奴を打ち倒せば凝り固まった思想観念は消え、新たな社会の中において自分は先行者としての名を勝ち取る。いや、自分であるからこそ気づけたのだ。階層的な社会による被害者。その者にしか強引な現状変更は行えない。皆が現状維持に夢中である一方で確実な正義の履行をする者は私しかいない。行動の時は近い。


と、こういった流れで過激な思想から行動が発生するのではないかと思うわけである。
昨今頻発する突発的で過激な犯罪行為に対して
「ネット社会による反発だ」
「不況によるものだ」
といった分析を散見するが、ネットがなくとも社会全体として不況でなくとも危険思想が発生することは歴史の中においても示されてきたはずだ。
オズワルドの時代にネットがあったのかい、ということである。

それなら問題点は階層間の格差であるかと言えば、これも違うように思われる。
絶対的な階層の設定が無い以上、各階層ごとのギャップを埋める作業をしたところで当人たちの納得がなければ意味を成さないからだ。視点によって階層分けの基準が変わってしまうのが厄介なのだ。階層の基準は相対的であり続けるが故に、階層という概念を無くすことも難しくなる。

例えば、ここ数年で進んでいることは性差、人種格差、こういったものを形から無くしていこうとする取り組みである。文化的な背景によって不当な差別を受けてきたとされる対象を一時的に社会が意図的に押し上げようとしている段階である。
これは性差や人種といった視点での階層分けを「無くそう」とする取り組みであって、こういった階層分け自体が不当なもので許されないものとするムーヴメントなわけだ。
これ自体の是非を論じるわけではない。それでも、どうしても疑念を抱くのはこの一時的に醸成されたムーヴメントは永続的な慣習とするのを目指しているのだろうかといったことだ。

第二次大戦下のアメリカでは女性の雇用が推進された。それは男が兵士として国を離れたことによる労働力不足と戦争による特需が発生したためである。これは言うなれば社会的な階層弱者が一時的に必要とされたということである。当時は今以上に女性が働く時代ではなかったことは語るまでもないだろう。それでも時代的な都合によって女性が働いたわけだ。さて、男たちが戻ってきて戦争が終わると女性たちは家庭へ戻った。男たちの仕事が必要だからだ。

私は性差の問題を論じるならまずは国ごとの経済主体がどのように成立しているのかを論じるべきだと思うし、その結果に伴ってジェンダーギャップ解消の過程は作られるべきだと考えている。各国によって経済主体を構成する企業の規模感や大企業と中小企業の構成比率も変わるのであれば、それに応じた指標を掲げなければいけない。先進国であれば全ての国が同じことをできるわけではない。
そもそもの文化的な背景を基に作られた社会。
その社会を基に作られた経済主体。
その経済主体を基にした各階層の役割分け。
こういった順番で階層の問題が起きているのであれば遡りながら問題解決を図るのは当然のことであるように思われる。

一時的にブーストをかけるような形での弱者救済の取り組み(なんか名前があった気がする)が根本解決にならないのであれば、更なる鬱屈と反発を招くのではないかと考えてしまう。


さあさあ、なんか長いこと書いて来たわけだけれども、私は各イデオロギーに関しての勉強をしたこともないから、大学の時にそういうことを学んでおきたかったなーという気持ちになってしまった。
ロバートデニーロのタクシードライバーなんかは弱者の歪な反発を描いた映画だとは思うのだけれども、ちょっとデニーロがカッコよすぎるのが問題ですわね。あんなカッコよくしたらアカンやろって思ってまいますわ。めっちゃ小さいチー牛みたいなんにやらしたほうがよろしいわ。フシューフシュー言うてるチー牛に女の子助けさせたらよろしいねん。最後のバックミラー見る時の眼もカッコ悪なるで~。

それはそうと熱すぎるわ。暑いちゃう。熱い。熱。
季節をもう一個作って欲しい。夏の上。真夏も生ぬるい。なんやろな。極夏。きょっか。
「いや~、今年も極夏の季節とあいなりましたが~」

はい。おわり。

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